由来は「清洲越し」にまでさかのぼる
伊勢町通りなどがある辺りは、1612年に行われた「清洲越し」により形成された、碁盤割りの地区です。
戦国時代、この地方の中心地は、織田信長が居城としていた清洲城の城下町でしたが、徳川家康が名古屋城を築く際、都市機能を清州から名古屋へ移転したのです。
もともと伊勢の国から清州に移った際に、町人の出身地がそのまま名付けられていたのですが、清州越しで名古屋に移った際も、この通りの名前をそのまま残し続けたからだというのです。
アサイさんによると「名古屋城の城下町として発展してきた中区では、清州から名古屋へ移ってきた際の地跡が数多く残っており、中区では散策用のマップや小冊子を無料で配布しています」とのことです。
名古屋城の辺りを起点に南へと作られた堀川にかかる「五条橋」も、もとは清州の五条川にかけられた橋の名がそのまま付けられています。名古屋の歴史を感じる街歩きが楽しめそうですね。
女子大がないのに「女子大小路」?
一方、中区にある通りの名前で「
女子大小路」というのがありますが、その周辺に女子大学はありません。この由来についてもアサイさんに尋ねました。
中区役所からも近く、飲食店の多い栄四丁目の一帯は「女子大小路」や「女子大通り」と呼ばれていますが、これは現在の名古屋東急ホテルの辺りに、1963年まで中京女子短期大学(現・至学館大学短期大学部)があったことに由来しているとのことです。
現在は新たに「栄ウォーク街」という名前もあるそうですが、やはり長年使用してきた「女子大通り」を使用し続ける方は多いです。今は由来となった場所がなくなり、通りの名前として今も「女子大通り」という名前の方が定着し続けるというのは面白いですね。
ちなみに中区役所のある、中日ビル東側あたり(現在の中区栄4丁目)をいまも「武平町」と呼ぶ方がいますが、現在の武平町は愛知県芸術劇場南西の一区画にしかなく、しかも中区ではなく東区に属しています。
他にもバス停や駅名でも古い名前を使い続けているケースがありますが、やはり道や駅の名前を変えると、地図を大がかりに変えないといけなかったり、生活に支障をきたす場合もあるので、あえて変えないのでしょう。
アサイさんからは「歴史を感じる呼び名の通りがある一方で、繁華街で生まれた新しい呼び名の通りもありますので、昔と今との違いを比べるのも楽しい」とまとめていただきました。
ゴールデンウィークだけどあまり時間が取れなかったり、遠くに行くのはしんどいので近場で楽しみたいという方は、中区周辺で名古屋の歴史をたどりながら散策を楽しんでみてはいかがでしょうか。
また、白川公園内にある名古屋市科学館で、5月28日まで「特別展 恐竜の大移動」が実施されていますので、こちらもあわせてお楽しみください。
(岡本)