大谷ノブ彦のキスころ

大谷ノブ彦、エレファントカシマシを語る(前編・混迷期から復活へ)

8/27の放送は、2時間たっぷり、エレファントカシマシ(エレカシ)大特集をお届けしました。
エレカシは、1981年に結成されたロックバンド。ボーカルの宮本浩次(みやもとひろじ)を始め、4人のメンバー全員が東京都の赤羽出身で、中学または高校の同級生です。

パーソナリティーのダイノジ・大谷ノブ彦は、エレカシとダイノジが進んだ道のりが非常にリンクしており、ダイノジに最も影響を与えたバンドだと言います。

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他のバンドとは違う


エレカシは1988年、シングル『デーデ』、アルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI』で、デビューしました。レーベルはエピック・ソニー(現エピックレコードジャパン)。このエピック・ソニーというのがキーポイントになるのですが、それは後述するとして。

この頃高校生だった大谷。クラスメイトの間や周囲では、ザ・ブルーハーツ、BOØWY、ユニコーン、ジュンスカイウォーカーズなどに人気が集まっていました。
そんな中、エレカシは東京の下町の雰囲気が残る赤羽から出てきて、垢抜けない武骨な男くさいロックバンドだったため、ポピュラーな、いわゆる“わーきゃー”的な存在ではありませんでした。
そういう「他のバンドと違うところ」が、クラスの中の爪はじきであった大谷にとって、心の拠りどころとなったのです。

初期のエレカシは、バブルで浮かれている日本人から鎖国状態の感じで、当時流行っていたバンドブームの気流に乗ることもしませんでした。
「アマチュアがコピーしやすいサウンドにすれば売れてただろうに。でもそんなことに一切背を向けて、『自分は何者なんだ』という自己探求と、世の中との距離感・隔たりがわからず苦しんでもがいてる様子が、人付き合いがうまくなかった当時の僕にフィットした」と大谷は語ります。

夏目漱石や芥川龍之介など、明治時代の文豪は、作品を通じて自己探求・自分探しをしていたとも語る大谷。それらの作家が好きな宮本は、同じことをロックアルバムを通じてやっていたんじゃないかと分析するのでした。

エピック・ソニーはロックに寛大


その後、アルバムを発表する毎にだんだんと内省的な要素が深くなっていくエレカシ。
究極は1990年、4枚目のアルバム『生活』を出した頃。

その時行なわれた武道館でのライブ。会場を半分しか使わず、凝った照明もなく“素明かり”で、暗くする演出も一切無し。
ステージに出てきて一通り演奏して終わり。
初期のエレカシのライブは、おしゃべり(MC)無し、アンコール無し、手拍子禁止、一緒に歌うの禁止、立ち上がるの禁止だったので、当然武道館でも同じ。

…という話を大谷は雑誌で読んで、あっけにとられました。

こんなムチャクチャな、一般ウケしない行動や楽曲制作をしていたら、普通のレコード会社は愛想を尽かせます。
しかしエピック・ソニーは重宝してくれました。それは、こんな理由があったからです。

元々、CBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)という大きなレコード会社がありました。
1971年、そのCBS・ソニーがアイドル歌手というものを初めて作ったのです。それが南沙織。その後、キャンディーズ、山口百恵などを輩出。“アイドルのCBS”として名を上げていきます。

その後1978年、エピック・ソニーという新レーベルが発足します。それまでアイドル歌手のレコードが売れていますから、所属歌手としてアイドルが是が非でも欲しい。そこで「CBS・ソニーさん、アイドル歌手を貸してください」とエピック側が頼んだところ、断られてしまうのでした。

どうしようと悩んだ末、エピック・ソニーが選んだのが、和製の日本語ロックを育てることでした。
最初の代表的なアーティストは佐野元春。その後、大沢誉志幸、岡村靖幸、渡辺美里、TM NETWORKなどが所属します。
ちなみに渡辺美里は、アイドルとロック歌手の間のような位置付けだったため、デビュー当時はキャッチコピーがありました。
それは“ロックを母乳に育ちました”。大谷は本人の前で「クソださいキャッチコピーですね」と言ったとか。

このように、エピック・ソニーは個性を尊重する、ロック的な思想を持っているので、なかなか売れないアーティストでも契約を切られなかったのです。

変わり始めたと思ったら…


そうして我が道を邁進していくエレカシ。1993年、6枚目のアルバム『奴隷天国』が発売され、東京に進学が決まった大谷は、そのライブツアーを五反田に観に行きました。

そこで見たものはまさに地獄絵図のようでした。
ほぼ全員が男性客。開演前に客席から「宮本!出てこい!コラァ!」と怒号が飛び交います。
すると、素明かりで何のBGMもなくメンバー4人がポケットに手を突っ込んで登場。
表題曲の『奴隷天国』が始まります。この曲では、宮本が「お前だよ!そこの!」と客席に向かって罵倒します。

大谷はすっかり疲れ果て、もうエレカシとは距離を置こうと思ったのでした。

しかし1994年、7作目のアルバム『東京の空』で、エレカシに変化が見られるようになります。
開かれてきた、優しい感じの曲になってきたというのです。
しかも、「ライブで宮本がMCを始めた」という衝撃の記事が。「アワアワとして、言葉を初めて使う原始人のようだった」と書かれていました。
アンコールをやったとも。

「これは何かが変わるぞ!」と大谷は思ったのですが、なんと、このアルバムを最後にエピック・ソニーとの契約が切れるというのです。
今でこそインディーズという道がありますが、当時はメジャーとの契約が切れる=死刑宣告のようなものですから。

大化けする期待感が膨らみかけながら、あえなくしぼんでいきます。やがて大谷の心からもエレカシの存在が消えていったのでした。

生まれ変わった宮本


1995年。大谷はお笑い芸人になったものの、全くウケていませんでした。それを「客がバカだからどうしようもねー。本当のお笑いをわかってねーんだよ。見た目が良い芸人にキャーキャー言いやがって」と毒づくという、まさにエレカシの悪いマネをしていたのでした。

そして、芸人生活に見切りをつけようとしていた頃、下北沢シェルターという小さなライブハウスで、エレカシのライブが開催されるという情報が入ってきたのです。
運よくチケットを手に入れた大谷。そこで見たものはまさに人間・宮本浩次でした。

一生懸命MCをして、お客さんをあおって。全然うまくはないんだけど、必死に曲を届けようとしている姿。
大谷の地獄の思い出とは全く違う光景の中、新曲『悲しみの果て』が流れてきます。
それまでとは違う美しい曲調で、宮本の才能がほとばしる突き抜けたメロディーに、大谷は感動するのでした。

あの、人間を恨んでいたような男が、人間を励ます歌を歌う。あんなに後ろ向きだったのが、前向きに変われる。

そして翌1996年4月、両A面シングル『悲しみの果て/四月の風』で、ポニーキャニオンから奇跡のメジャー復活を遂げるのでした。
(後編へつづく)
(岡戸孝宏)
大谷ノブ彦のキスころ
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2017年08月27日13時00分~抜粋

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