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奥山景布子『流転の中将』

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★内容紹介
・幕末の桑名藩主・松平定敬(さだあき)の物語。中将とは定敬の官名。
・松平定敬は美濃高須藩の松平家に生まれ、養子として桑名藩を継いだ。すぐ上の実兄は会津松平家に養子に出された松平容保。容保は幕末の京都で京都守護職、定敬は京都所司代となって、将軍・徳川慶喜を補佐しながら京都の治安維持に努めていた。しかし薩長との戊辰戦争が勃発、慶喜は容保と定敬を連れてこっそり大阪を逃げ出し、兵を捨てて江戸に帰ってしまう。
・定敬は江戸で体制を立て直して薩長と戦うのだと思っていたが、慶喜はとっとと恭順を決め、むしろ「容保と定敬のせいで自分が朝敵になった」と言わんばかりにふたりを遠ざける。
・困ったのは桑名藩の国許。このときには全国の藩が新政府軍につくか幕府につくかの選択を迫られていた。しかし藩主の定敬は江戸に行ってしまって指示を仰げない。藩の重臣たちは、定敬が所司代を勤めたことで薩長の仕置きが厳しくなると予想、お家存続を第一に考え、定敬に相談なしに彼を藩主から外して次の藩主を立て、恭順を決める。
・それに不満を持つ一部の家臣は定敬を追って江戸に出て、徹底抗戦を叫ぶ。定敬は国に戻ることも出来ず、桑名は、国は恭順、藩主は抵抗という矛盾した形に。せっかく恭順して桑名藩が残ったのに、定敬が戦うとお家存続もダメになるかも、と重臣のひとりが定敬を追うが……。
★読みどころ1)意外と知られていない松平定敬の流転の人生
幕末はそれぞれの藩でいろいろなドラマがあったが、国許は恭順しているのに藩主だけが戦い続けたという桑名藩と松平定敬についてはあまり知られていない。実はこの後、定敬は江戸から新潟で潜伏し、そのあと兄のいる会津に向かう。会津が配色濃厚になると、榎本武揚と一緒に函館の五稜郭に向かい、箱館戦争にも参加。そのあと、なんと上海にまで逃げている。ここまで波乱万丈のお殿様はいない。
★読みどころ2)桑名藩の選択
桑名藩が定敬をはずして次の藩主を立て恭順を示したのは、会社にたとえるなら会社と社員を守るために社長を追放したというクーデターのようなもの。重臣たちとしても苦渋の選択だったが、ところが追放された社長がまだ問題行動を起こすので、慌てて探しに行く。ここのジレンマなどの人間模様は、現代にも通じるものがある。
・ぜひ、この地方の皆さんに読んでほしい一冊。

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