名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

「関ヶ原の戦い」で九州や東北でも戦が勃発?

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。9月20日の出陣は加藤清正前田慶次、陣笠隊の足軽・踊舞の3名でした。

関ヶ原の戦いは、9月15日に関ヶ原で勃発して当日に決着がつきました。しかし、九州や東北でも関連する戦が行われていたことはご存じでしょうか?

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今週の週刊戦国年表は?

9/20~9/26の期間、戦国時代に起こった出来事を取り上げる「週刊戦国年表」。

今回の出来事は1600年(慶長5年)9月15日に「関ヶ原の戦い」が起こった件と、その後の戦についてです。

美濃国(現在の岐阜県)で勃発した「関ヶ原の戦い」。
本戦は9月15日に半日、なんと昼過ぎには決着がついたと言われています。
しかし、関ヶ原以外でも戦は行われていました。

南は九州、北は東北までも戦が展開されていたのです。九州では加藤清正と黒田如水(黒田官兵衛)が、東北では伊達政宗が大活躍しました。
一体どんな状況だったのでしょうか。

謹慎処分を受けていた加藤清正

実は加藤清正は「関ヶ原の戦い」で徳川家康率いる東軍に属していたものの、当日の9月15日には自領の肥後国(現在の熊本県)にいました。家康から謹慎処分を受けていたからです。

その理由は、島津氏の重臣だった伊集院忠真が起こした「庄内の乱」を支援していたことが家康に発覚したため。

「庄内の乱」は徳川家康が五大老として収拾に取り組んでいたため、清正の行動は家康にとって許せないことでした。
家康は清正の上洛を禁止、清正が上方に向かってきた場合にはこれを阻止するように有馬則頼に命じていました。

「関ヶ原の戦い」の前、上杉景勝の家臣である直江兼続が出した直江状に激怒した徳川家康が会津征伐に動いた時も、加藤清正は参加を許されませんでした。
上洛もできず、戦への参加も認められなかった清正は、事実上謹慎処分を受けていたのです。

当時の九州は、石田三成の西軍に与する武将だらけ。加藤清正も西軍に味方するように説得を受けますが、徳川家康に懇願して東軍に味方しました。

「関ヶ原の戦い」が起こると、九州で黒田如水(黒田官兵衛)と協力し、周辺の西軍武将を攻撃して多大な武功を挙げたのち、肥後藩の初代藩主となったのです。
 

東北で活躍したのはあの独眼竜

一方、東北でも「関ヶ原の戦い」に関連した動きがありました。

「関ヶ原の戦い」が勃発すると、西軍の上杉景勝の重臣だった直江兼続が指揮を執る軍が、東軍の最上氏の領内に侵入します(慶長出羽合戦)。

東軍に与した伊達政宗は、最上氏からの援軍要請を受けて3,000の兵を送り、9月25日には茂庭綱元が上杉領の刈田郡湯原城を攻略します。

「関ヶ原の戦い」本戦が徳川家康の勝利で終わったと判明すると、直江兼続も最上義光に敗れて米沢に逃げ帰ってしまいました。
その後も伊達政宗は自ら兵を率いて国見峠を越え、南進して10月6日に福島城主・本庄繁長の軍勢と衝突するなど戦いが続いていました。

当時は今のようにリアルタイムで連絡できる時代ではなかったため、「関ヶ原の戦い」の結果も伝わるまでに時間がかかります。そのため、すぐには戦が終わらなかったと言えるでしょう。
逆に、リアルタイムで連絡を取ることができたら、武将たちが東軍・西軍どちらにつくか状況が大きく変わっていたかもしれません。

「関ヶ原の戦い」は、東軍の徳川家康vs豊臣秀吉に恩義が厚かった西軍の石田三成(大将は毛利輝元)の戦いと思われがちですが、九州や東北でも武将たちが激突していたのです。

歴史に「もしも…」はありませんが、徳川家康が負けていたら戦国の世に逆戻りしていたことは間違いありません。
徳川家康がもたらした太平の世となる江戸時代があったからこそ、今の日本があると言えまるかもしれません。
(葉月智世)
 
名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻
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2021年09月20日21時15分~抜粋

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