名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

関ヶ原の戦いは「徳川家康vs豊臣家」ではなかった

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。
8月30日の出陣は豊臣秀吉徳川家康、陣笠隊の足軽・太助の3名でした。

関ヶ原の戦いといえば「徳川家康vs豊臣家」と思い浮かべる方もいるようですが、実際にはどんな構図だったのでしょうか。

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今週の週刊戦国年表は?

8/30~9/5の期間、戦国時代に起こった出来事を取り上げる「週刊戦国年表」。

今回の出来事は1600年(慶長5年)9月1日、徳川家康が天下分け目の戦のために江戸城を出立した件について。

天下分け目の戦とは、日本史の教科書に必ず載っている関ヶ原の戦いのこと。
関ヶ原の戦い、実際は豊臣の家臣同士の争いでした。

関ヶ原の戦いが勃発するまでは、徳川家康もまだ豊臣家の家臣筆頭です。
徳川家康派の東軍vs反徳川家康派の西軍(総大将は毛利輝元ですが、実際仕切っていたのは石田三成)となったこの戦い。一体、戦いが起こるまでに何があったのでしょうか。
 

豊臣秀吉亡き後の力関係

豊臣秀吉が1598年(慶長3年)8月18日に死去した時、残されたのはまだ6歳だった息子の豊臣秀頼(母君は側室の淀君)。

秀吉は、五大老の徳川家康前田利家たちに何度も「息子の秀頼を頼む」と頼み、幼い秀頼の行く末を案じながら亡くなったのです。

五大老の5名の間には本来は上下関係がないはずでした。しかし、領地の石高や時の朝廷から賜っていた官位、豊臣秀吉が誰を厚遇していたかで自ずと「この武将が筆頭だろう」という雰囲気ができてしまうもの。

五大老の中で最も高い内大臣という官位を持っていたこと、秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けていたことから、徳川家康が五大老の筆頭と目されるようになりました。

この頃から、家康は秀吉が生きていた頃に「勝手に合議による承諾なく大名家同士の婚姻は禁止」というルールを破り、徳川家に有利になるよう大名間で勝手に婚姻を結ぶようになりました。これに反発したのが前田利家や五奉行だった石田三成です。

この時点で徳川家康に対抗できる立場と力を持っていたのは前田利家
しかし、利家も豊臣秀吉の後を追うように、1599年(慶長4年)3月3日に病死してしまいました。
利家も亡くなったことで、家康の力がますます強まってしまったのです。
 

関ヶ原の戦いが勃発するまで

前田利家の死後、不穏な空気は続きました。

利家の死後に、反家康派の筆頭である石田三成に反感を持っていた豊臣秀吉子飼いの武将たち(福島正則・加藤清正・池田輝政・細川忠興・浅野幸長・加藤嘉明・黒田長政)が三成の殺害を企てる事件が発生。

三成殺害未遂を仲裁したのは、徳川家康。この事件を機に、より家康派と反家康派の対立が深まっていくことに。この後も、反家康派の武将による家康暗殺未遂が発覚するなど、対立は確実に深まっていきました。

とうとう迎えた運命の1600年(慶長5年)。
3月、「会津の上杉景勝に不穏な動きあり」と家康派の武将たちから家康に訴えがありました。
これに対し家康は、伊奈昭綱を使者に景勝の元へ問罪使を派遣します。
ところが、徳川と戦う覚悟をしていた景勝の家臣である直江兼続(大河ドラマ『天地人』の主人公。『真田丸』でも活躍)が『直江状』を出し、家康を激怒させたと言われています。

会津征伐に動いたところを見逃さなかったのが、反家康派の石田三成。
伏見城を襲い、徳川家康の家臣を殺害するなど対立はもはや取り返しがつかない事態となって関ヶ原の戦いに繋がっていくのでした。

もし、豊臣秀吉がもう少し長生きして、息子の秀頼が成人間近まで成長していたら。
または前田利家があと5年程度、長生きしていたら。
ほんのわずかなズレが歴史を大きく変えてしまうからこそ、歴史ファンがあれこれ夢想するのでしょう。徳川家康が一番運に恵まれていたからこそ、天下を最終的に取れたという結末になってしまったのでした。
(葉月智世)
 
名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻
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2021年08月30日21時16分~抜粋

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