名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

勝手に辞めたら罰則?身分が固定されていく戦国時代

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。8月16日の出陣は豊臣秀吉、前田慶次、陣笠隊の足軽・なつの3名でした。

現代では、わたしたちが好きな仕事をできるのは当たり前のこと。
しかし、戦国時代から江戸時代初期にかけて武士と農民や商人といった身分は明確に分離され、固定化されていった経緯がありました。

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今週の週刊戦国年表

8/16~8/22の期間、戦国時代に起こった出来事を取り上げる「週刊戦国年表」。
今回の出来事は1591年(天正19年)8月21日、豊臣秀吉が身分統制令を出した件について。

簡単に言うと「勝手に武士や農民を辞めたら罰するぞ!」ということです。
勝手に武士や農民を辞めたり、勝手に辞めたものを雇ったりした雇い主は罰するという法令でした。

戦国時代より前は、幕府(鎌倉幕府や室町幕府)の地頭職と言われた役職の者や御家人、その郎党たち正規の武士以外の人たち、地侍(土豪)や野伏、農民等も武装していました。
皇族や一部の公家・上位の武士以外はその時によって武士にも農民にもなるという状態(半士半農)だったのです。

いったい、どのように身分が固定化されていったのでしょうか。
 

戦国時代以前の戦い方って?

半士半農だった戦国時代以前は、農業(稲作)が忙しい時期である春から秋は、生きるために農業を優先していました。
​​もちろん領主であった戦国武将たちも、農民から年貢を集めなければ戦や領国運営ができません。

もし、田植えや稲刈りといった一番忙しい時期に戦のために動員したら、農民は嫌がって逃げてしまいます。農民に逃げられたら領国運営が行き詰まる危機。
何より、農民が戦で死んでしまえば田畑を耕す人員がいなくなってしまうので、無茶な戦いもできないのです。

そこで全ての戦ではありませんが、戦国時代初期までは農業が暇な秋の終わり頃に農民を動員し、春の農業が始まる前に引き上げるような戦い方をしていました。

例えば、上杉謙信は越後(新潟県)の戦国武将。
穀倉地帯を治めていた上杉謙信は、農民たちが稲刈りを終える11月後半ごろに動員して、三国峠を越えて関東に出兵していました。
そして、小田原を支配していた北条氏と戦をし、春になり田植えが近づくと越後に引き上げるような戦い方をしていたのです。

しかし、こんな戦い方をしていたら戦国武将は困ってしまいます。
何とか年貢も兵力も確保し、いつでも戦をできるようにしたいと思うのが戦国武将。
どうやって解決したのでしょうか。
 

兵農分離をすすめた三英傑

まず織田信長は、農民の次男以降の男子に目を付けます。

当時、跡取りは長男。次男以降は家を継げないだけでなく、財産も手に入りませんし、いわゆる「ごくつぶし」です。

そこで彼ら次男以降の男子を集めて訓練し、足軽などにして兵力にしました。集められた農民の子たちも、手柄を立てれば立身出世の道が開けます。
何より、戦国武将たちも戦がしやすいだけでなく、戦力の確保・数の把握ができてお互いにメリットがありました。

織田信長の後を引き継いだ豊臣秀吉は、刀狩りや検地をおこなってさらに兵農分離を進めます。今回番組で取り上げた身分統制令も、兵農分離の一環でした。

こうして農民から武器を取り上げ、農業に専念させた豊臣秀吉の政策は、年貢を正確に把握して取り立てやすくするだけでなく、当時進めていた朝鮮出兵にともなう兵力確保の狙いもありました。
ただし、この時点ではまだ完全に身分を固定するまでには至っていません。

さらに身分を固定化したのは、江戸幕府を開いた徳川家康でした。
基本的に武士などの身分は世襲。武士や公家が没落することはありました、が他の身分になることは禁じられました。
藩によっては、農民や商人・鉱山の人手が足りなくて武士が状況に応じて農業や工夫を手伝っていた例はありますが、基本的に武士は武士。農民は農民でした。

こうして戦国時代から江戸時代にかけて変わっていった身分制度を見ると、今では考えられない不自由さです。
逆に、もし戦国武将たちが現代に生まれていたらいったいどんな職業に就いたのか想像してみるのも面白そうです。
(葉月智世)
 
名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻
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2021年08月16日21時16分~抜粋

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