名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

戦国武将なのに公家のような教養を持っていた朝倉義景

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。8月9日の出陣は織田信長、前田利家、陣笠隊の足軽・踏舞の3名でした。

朝倉義景と言えば、室町幕府の中で家臣を務めていたほどの家柄。戦国時代の武将たちの中では家柄のいいほうでした。その朝倉義景は織田信長に討たれ、滅亡してしまうことになります。

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今週の週刊戦国年表は?

8/9~8/15の期間、戦国時代に起こった出来事を取り上げる「週刊戦国年表」。

今回の出来事は1573年(天正元年)8月、織田信長が朝倉義景を討った件について。

この戦いは一乗谷城(いちじょうだにじょう)の戦い、又は激戦地だった場所の名前を取って刀根坂(とねざか)の戦いとも呼ばれています。

朝倉義景と言えば、当時は越前国(福井県)を治めていた戦国大名。朝倉氏は室町時代から続く名門で、義景は第11代当主でしたが織田信長に攻められ、この戦いで滅亡することになります。

居城としていた一乗谷はまるで京都のような町割りで雅やかだったとも伝わっていますが、この戦いで火を掛けられ、往時の街並みは発掘でしかわかりません。

いったい、朝倉義景とはどんな人だったのでしょうか。
そして、織田信長が義景を討った最後が気になります。
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朝倉義景の生涯

朝倉義景は、1533年(天文2年)に生まれ、16歳で家督を継ぎました。
1552年(天文21年)6月には、当時の室町幕府13代将軍だった足利義輝から「義」の字を与えられ、義景と名乗るようになります。

その後、足利義輝は三好義継らによって殺害され、義輝の実弟だった後に15代将軍となる足利義昭(当時は出家していたため覚慶)が、室町幕府の将軍になるため各地の戦国武将に援助を依頼します。

実際、足利義昭は朝倉義景を頼って一乗谷にやってきました。
実は足利義昭、すなわち室町幕府将軍候補を擁して上洛することは天下を取る近道。しかし、朝倉義景は上洛に消極的だったのです。

しびれを切らした足利義昭は織田信長を頼って上洛を果たし、室町幕府の将軍になりました。せっかくの好機を逃したと言われています。
その後、信長包囲網などに参加しますが運に恵まれません。

その後は近江の浅井長政(織田信長の妹、お市の方の婿)と手を組んで戦うも、浅井家と朝倉家は滅亡することになってしまいます。
 

朝倉義景の最期

1573年(天正元年)8月12日、近江を暴風雨が襲いました。

織田信長は朝倉軍が守る大嶽砦を、自ら1,000人の手兵と馬廻のみで奇襲。朝倉軍は暴風雨の中を攻めてくるとは思っていなかったため、あっさりと降伏します。

ここで織田信長は捕えた敵兵をわざと解放、朝倉義景の本陣へ向かわせました。「義景が大獄砦の陥落を知ったら、必ず撤退するだろう」と考え、その時を狙って追撃しようと考えたのです。

翌日8月13日、大嶽砦の陥落を知った朝倉義景。織田軍総勢3万に対し、朝倉軍は2万でした。しかし、朝倉軍は出陣前に家中の意見が割れて主力重臣らを欠いていて、勝ち目がないと考えた朝倉義景は撤退を決断。信長の予想通りの行動を取りました。

この撤退で激戦となった利根坂の戦いで、朝倉義景はさらに多くの部下を失います。何とか本拠地の一乗谷へ帰還できたものの、義景の劣勢を知って味方する武将はいません。
この時には、朝倉義景の味方は近習を含めわずか500人余りだったと言われています。

その後、8月18日に織田信長が一乗谷に攻め入り、火を掛けます。
朝倉義景は六坊賢松寺で自害して果ててしまいました。

せっかくの好機を逃した朝倉義景ですが、実は戦より芸事に凝っていたと言われています。和歌をはじめ、連歌・猿楽・作庭・絵画・茶道など多くの芸事を好んで行っていた記録が残っており、一乗谷には京都から一流の文化人が集まっていました。

どちらかというと、武将より公家のような生活のほうが好みだったようです。
生まれた職業を間違ってしまったという意味では、朝倉義景も不幸だったのかもしれません。
(葉月智世)
 
名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻
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2021年08月09日21時15分~抜粋

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