名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

なぜ信長は約11年もの間、宗教勢力と戦うことになったのか

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。9月6日の出陣は織田信長豊臣秀吉、陣笠隊の足軽・十吾の3名でした。

戦国時代、最大の宗教勢力vs戦国武将の戦と言えば「石山合戦」でした。
当時、権勢を誇っていた大坂の石山本願寺と織田信長が約11年も戦わなければならなくなった戦とはどんなものだったのでしょうか。

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今週の週刊戦国年表

9/6~9/12の期間、戦国時代に起こった出来事を取り上げる「週刊戦国年表」。

今回の出来事は1570年(元亀元年)9月12日、織田信長と石山本願寺の戦が始まった件について。

石山本願寺といえば当時大坂にあり、絶大な勢力を誇った寺で門主(寺の最高権力者)は顕如(けんにょ)と言いました。
当時、全国各地で民衆が起こしていた一向一揆には、戦国武将たちも苦しめられており、各地の一向一揆は石山本願寺が裏で糸を引いていました。

一体、なぜ紫山本願寺と信長がぶつかり合うことになったのでしょうか。
 

石山合戦が起こった理由

1568年(永禄11年)、織田信長は室町幕府第15代将軍となる足利義昭を擁して上洛し、義昭を将軍にしました。

信長は、足利将軍家の名目で畿内の本願寺系の寺に矢銭(金銭)を要求、払わない場合は取り潰しなどの措置を決行します。
石山本願寺にも「京都御所の再建費用」という名目で矢銭5000貫を要求しましたが、この時は、顕如も支払いました。

しかし、1569年(永禄12年)半ばから、信長と義昭の仲は険悪になっていきます。

その後、将軍の義昭は各地の有力な戦国武将や寺などに「信長を討て」とこっそり手紙を書きました。
信長の妹、お市の方が嫁いでいた近江の浅井家・越前の朝倉家が信長に反旗を翻すのと前後して、石山本願寺も信長と戦うことを決意。

前述の1570年(元亀元年)9月12日に顕如は「信長が本願寺を破却する(取り潰す)と言ってきた!」と本願寺の信者に檄を飛ばします。
三好三人衆を攻略するため摂津福島に陣を敷いていた織田軍を突如攻撃し、戦いの火蓋が切って落とされたのでした。

こうして、信長を悩ませる長い石山合戦は幕を開けたのです。
 

石山合戦後の本願寺

石山合戦の舞台となった本願寺は、大坂にありました。

合戦の後、この地に築かれたのは豊臣秀吉が築城した大坂城です。
大坂城が築かれたため、当時の石山本願寺がいったいどれほどの規模だったのかは今でもわかっていません。

豊臣秀吉の時代を経て、徳川家康が江戸幕府を開いた江戸時代初め。本願寺は跡目争いなどで分裂しました。

その後、分裂して残っているのが、現在の京都にある東本願寺(通称:お東さん)と西本願寺(通称:お西さん)です。

うまく徳川幕府に接近し、何とか存続できた本願寺は現在、さまざまな寺宝を擁する本拠地として残っています。
観光地として、外国人をはじめ修学旅行生などが大勢訪れる名所となりました。

ちなみに、石山本願寺の頃に一向一揆を戦っていたのは民衆。戦が怖くなかったのか気になるところですが…。

民衆たちは本願寺から「勝てば金銭を褒美として支払おう。もし負けて殺されたとしても、仏のために戦った対価として極楽浄土へ行ける」と言い聞かせられていたそうです。

貧しい暮らしをするくらいなら戦い、勝てば褒賞を貰える。死んでも極楽に行けるなら…と頑なに信じて死を恐れず戦う民衆に、戦国武将たちは本当に手を焼きました。

何かを一途に信じられるのはすごいことですが、命を懸けて戦っていた民衆の気持ちは今のわたしたちにはちょっと理解しづらい感覚。
しかし、現在も世界では、宗教を旗印に戦争が絶えないのも事実です。生まれた時代が、一揆のない平和な日本で幸せだと思いました。
(葉月智世)
 
名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻
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2021年09月06日21時14分~抜粋

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