名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

なぜ家康は不遇の幼少時代を過ごすことになったのか

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。8月2日の出陣は徳川家康、加藤清正、陣笠隊の足軽・太助の3名でした。

徳川家康は、幼少の6歳から元服後まで13年も人質生活を送った戦国武将です。通常であれば、親元で様々な教養などを勉強して成長していくはずですが、家康の家の事情で普通の幼少時代を過ごすことができませんでした。さっそく週刊戦国年表をみていきましょう。

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今週の週刊戦国年表は?

8/2~8/8の期間、戦国時代に起こった出来事を取り上げる「週刊戦国年表」。
今回の出来事は1547年(天文16年)8月2日に竹千代が今川家の人質になるために出発したことについて。

竹千代とは、徳川家康の幼名です。
家康はわずか6歳で人質として、駿府の今川義元の下へ送られることになりました。この時から家康の長く苦しい時代が始まります。

ところが、人質として送られる予定だった今川義元のところではなく、織田信秀(織田信長の父)のところへ行く羽目に。
どうして、家康が人質にならなければならなかったのか気になるところです。
 

人質になった理由

当時、徳川家康の苗字は松平でした。

松平氏は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)から力を付けて成長した戦国武将。地道に勢力を拡大し、家康の祖父である松平清康の頃には三河の大半を支配するまでに成長しました。
しかし、祖父は家臣に暗殺されてしまいます。この暗殺で、松平家は弱体化してしまいます。

家康の父・松平広忠は、近隣の武将だった織田信秀などから領地を守るため当時この地域で一番の戦国大名だった今川義元の傘下に入ることを決断。松平家が忠誠の証として差し出したのが嫡男の家康でした。

家康は、人質になるために駿府へ向かいます。その途中、立ち寄った田原城(三河国渥美郡田原、現在の愛知県田原市田原町巴江)で・戸田康光の裏切りのため、尾張国の織田信秀(織田信長の父)のところへ送られました。
そのまま2年間、尾張国の熱田にあった加藤順盛の屋敷に留め置かれた時代に、まだ元服前だった織田信長と知り合ったとも言われています。

2年後、やっと今川義元のいる駿府へ。
この頃、家康の父が亡くなり、松平家の岡崎城は今川義元が派遣した城代(義元の代わりに治めるために派遣された家臣)が管理するようになりました。
城まで抑えられた家康は、人質として今川義元の下で元服(成人)し、「元」の字をもらって松平次郎三郎元信と名乗りました。

その後、今川義元が織田信長に桶狭間の戦いで敗れた隙を見て岡崎城を奪還。
人質生活は、織田家の2年を含めると何と13年間にも及びました。
 

その後の家康

その後徳川家康は、今川家と縁を切って織田信長と清州同盟を結びます。

信長と協力し、今川家の領地を奪いつつ徐々に戦国武将としても力をつけていきました。武田信玄の軍勢とぶつかった危機などもありましたが、有力な戦国大名に成長します。

織田信長が本能寺の変で自害した後も、うまく立ち回って豊臣秀吉に臣従しつつ豊臣政権の中でトップクラスの地位をゲット。
豊臣秀吉が死去した後の関ケ原の戦いで勝利すると、征夷大将軍となり江戸幕府をひらきました。

世間的に有名なホトトギスの歌の逸話(作られたのは江戸時代後期)があります。
織田信長は「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」、豊臣秀吉は「鳴かぬなら 鳴かせて見せよう ホトトギス」とそれぞれのキャラクターを反映した歌を当てられました。

徳川家康は「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」と言われました。こちらもじっくり我慢して天下を取った人生を反映しています。

幼少時代から元服後までは不遇な人生を送った家康も、晩年には天下人となったことを思えば、いい経験だったのかもしれません。
(葉月智世)
 
名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻
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2021年08月02日21時14分~抜粋

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