名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

地震で崩壊、秀吉好みの豪華絢爛・伏見城はどんな城だった?

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。7月26日の出陣は織田信長前田慶次、陣笠隊の足軽・なつの3名でした。

豊臣秀吉が隠居するために建てた伏見城。
現在、本丸跡は明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)として立ち入りできませんが、当時は秀吉好みの豪華絢爛な城が作られていました。
一体、伏見城とはどんな城だったのでしょうか?

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今週の週刊戦国年表は?

7/26~8/1の期間、戦国時代に起こった出来事を取り上げる「週刊戦国年表」。

今回の出来事は1594年(文禄3年)8月1日に豊臣秀吉が引越ししたことについて。

秀吉が引っ越した先は、京都の伏見城でした。しかし、江戸時代初期に廃城となった伏見城は残念ながら現在残っていません。
廃城となった伏見城の天守は二条城に、他の多くの建物は広島の福山城・京都の淀城に吸収され、それ以外も全国各地に移築されていったと伝わっています。

残っていない城と聞けば、築城された経緯や廃城になるまでの出来事が気になるところです。秀吉が亡くなる数年前に造られた伏見城とは、どんな運命をたどったのでしょうか。
 

伏見城が作られた理由

伏見城の原形となる屋敷は、豊臣秀吉が1591年(天正19年)に関白と京都の聚楽第を後継者に定めた豊臣秀次に譲った際、隠居所として築いたものでした。

1592年(文禄元年)8月、秀吉が観月の名所で知られた指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老周辺)を散策して場所を決定。すぐ着工され、工事は突貫で進められました。

伏見城築城に伴い、それまで秀吉が拠点としていた聚楽第周辺から多くの民が移住しました。現在も「聚楽町」「朱雀町」「神泉苑町」などの地名が伏見に残っています。
当初は邸宅扱いだった伏見城。1593年(文禄2年)9月に伊達政宗との対面や徳川家康前田利家との茶会に用いられており、この頃には大体完成していたようです。

1594年(文禄3年)から本格的な工事が始まり、前述の通り秀吉が夏に引っ越してきます。
しかし、運が悪いことに1596年(文禄5年)7月、慶長伏見地震と呼ばれる大地震が発生、天守の上二層が倒壊するなど、大きな損害を受けました。

この地震で崩れなかったのは台所だけ。秀吉はそこで一晩を過ごしたと言われています。

その後、指月から北東1kmほど先にある高台、木幡山に仮の小屋を造った秀吉。後にこの木幡山に伏見城を再建します。

再建され、豪華絢爛にしつらえたものの、秀吉は1598年(慶長3年)8月に伏見城で死去。せっかく再建したのに、わずかな期間しか住めませんでした。
 

その後の伏見城

豊臣秀吉が亡くなった後、後継者になった息子の豊臣秀頼は慶長4年(1599年)正月に大坂城へ移ってしまいました。
五大老の一人だった徳川家康もその後大坂城に移ってしまいます。主のいない城の近くに大名たちは住まないもの。

大半の大名は秀頼について大坂へ引越ししてしまい、伏見城下は荒廃していきました。

伏見城の城代は、徳川家康の家臣・鳥居元忠が務めていました。
家康が1600年(慶長5年)6月に会津征伐(後の関ケ原の戦いにつながっていく前哨戦)に出かけた隙に小早川秀秋・島津義弘連合軍が伏見城を4万の兵で兵糧攻め。8月に城は炎上、落城してしまいました。

その後、関ケ原の戦いで勝利した家康は、伏見城を再建します。藤堂高虎が普請奉行を務め、1602年(慶長7年)の末頃にはほぼ再建されたと言われています。
征夷大将軍就任後も、しばらくの間家康は江戸城と伏見城を行き来していたそうです。しかし、家康も駿府城へ居城を移し、豊臣家が滅亡した大坂の陣後は廃城となってしまいました。

秀吉が建てた豪華な伏見城は見ることは叶いませんが、伏見城の天守は今も残る二条城へ移築されており、当時の面影を偲ぶことができそうです。
もし、あと数年秀吉が長生きし、後継者の秀頼が成長していたら伏見城の運命は変わっていたはず。城も人も、儚い運命なのは一緒のようです。
(葉月智世)
 
名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻
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2021年07月26日21時15分~抜粋

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