名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

母の死に目に会えなかった豊臣秀吉

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。7月19日の出陣は豊臣秀吉加藤清正、陣笠隊の足軽・踊舞の3名でした。

身近な人が亡くなると、精神的にも肉体的にもダメージを受けるのは戦国武将もわたしたちも一緒。
大事にしていた親ならなおさらショックで泣き崩れてしまいます。

豊臣秀吉も悲しい思いをしたひとりでした。

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今週の週刊戦国年表は?

7/19~7/25の期間、戦国時代に起こった出来事を取り上げる「週刊戦国年表」。
今回の出来事は、1592年(文禄元年)7月22日に大政所(おおまんどころ)が死去したことについて。

大政所とは、天下人となった豊臣秀吉の母君の尊称です。
摂政・関白職に就いた者の母親へ、天皇が宣旨(天皇が出す命令を文書にしたもの)により贈与する尊称「大北政所」の略とされています。

豊臣秀吉の母の名前は仲(なか)だったそうです。
ちなみに、秀吉の正妻であるおねも、尊称である「北政所(きたのまんどころ)」と呼ばれていました。

一般的に親の死は、武将でも庶民でも、身分に関係なく悲しいもの。死に目に立ち会えないことも多くあります。
全国統一を果たし、多忙な秀吉は大政所の死に目に会えず、ショックのあまり倒れてしまったとも伝えられています。

そんな大政所、いったいどんな人物だったのでしょうか?
 

大政所の生い立ち

豊臣秀吉の母である大政所は、永正13年(1516年)、尾張国愛知郡御器所村(現在の名古屋市昭和区)で美濃の鍛冶職人だった関兼貞の娘として生まれたとされています。

大政所の妹には、松雲院(福島正則の母)、従妹(妹との説も)に聖林院(加藤清正の母)がいます。
後年、福島正則と加藤清正は秀吉の子飼いとして大活躍しました。

織田家の足軽(雑兵)だった木下弥右衛門と結婚し、秀吉を生みます。しかし夫に先立たれ、竹阿弥という人物と再婚して秀吉の弟である秀長と妹になる朝日姫(徳川家康の継室)を生みました。

秀吉は姉が1人、弟と妹がひとりずつで4人姉弟だったとされていますが、実際はもっと多かったとの説もあり、真相は不明です。

ただ、大政所は竹阿弥にも先立たれてしまい、以後は秀吉のそばで暮らしたとされています。
織田信長の下で出世した秀吉は、近江の長浜城主になると北政所たちと一緒に暮らすようになり、嫁姑関係はとても良好だったとか。

秀吉は母をこの上なく大切にしていました。父親とは早くに死に別れているため、母をより大切にしていたようです。
秀吉は親子仲も良く、大出世で親孝行したと言えます。

一方で戦国武将の中には、決して母と仲が良くなかった武将もいます。例えば、織田信長の母は信長を嫌い、弟ばかり可愛がっていたと伝えられています。
 

死に目に立ち会えなかった秀吉

豊臣秀吉は天下人となってからも、引き続き母の大政所を大切にし続けました。
しかし、大政所は次第に病気がちとなり衰弱していきます。
命の危機に瀕する度に、僧侶の祈祷で助かったとも伝わる大政所でしたが、やはり年齢には勝てませんでした。

秀吉が不在の間に、聚楽第で死去した大政所は享年77歳。
この時代の平均寿命の約2倍だったことを考えれば、大往生だったと言えます。

しかし前述した通り、秀吉は母の死に目に立ち会えませんでした。
この頃、朝鮮出兵のために福岡の名護屋城にいましたが、危篤の知らせを聞いて大慌てで戻りますが間に合わず。

大坂に戻ってきた段階で、既に亡くなったことを知らされた秀吉はショックを受けて倒れてしまうほどでした。どれだけ母を大切に思っていたかがわかります。

手厚く大政所を供養した秀吉でしたが、この頃になると秀吉自身もかなり身体が弱ってきていました。
母の死から6年後の1598年に秀吉は死去しますが、子の鶴松、弟の秀長、そして母と大切にしていた家族を相次いで失ったことも衰弱の遠因だったのではないでしょうか。

親兄弟など、身近な人を亡くすことは現代を生きるわたしたちにとっても大きな精神的ダメージになります。
秀吉の悲しみぶりを思うと、昔も今も人は変わらないものだと思えます。
(葉月智世)
 
名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻
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2021年07月19日21時12分~抜粋

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