名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

今も残る小田原城で起こった戦にまつわる物語

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。
7月5日の出陣は豊臣秀吉、前田慶次、陣笠隊の足軽・太助の3名でした。

小田原城と言えば、今でも残る関東の史跡のひとつ。城好きが今でもこぞって訪れることでも知られています。

この城を舞台に起こった小田原征伐に関する出来事について取り上げられました。いったいどんな出来事があったのでしょうか。

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今週の週刊戦国年表

7/5~7/11の期間、戦国時代に起こった出来事を取り上げる「週刊戦国年表」。
 

今回の出来事は1590年(天正18年)7月5日に起こった小田原城開城について。

関白太政大臣となっていた豊臣秀吉が多数の武将を動員して攻めたこの戦。北条氏直が降伏を申し出て、本拠地の小田原城が開城された日です。

小田原城は、現在の神奈川県小田原市にあり、東海道新幹線の停車駅としても有名。現在でも残っており、とても大きな城として知られています。
小田原征伐が起こった理由や経過もですが、舞台となった小田原城を治めていて北条氏についても気になるところです。
 

小田原征伐の原因と経過

この頃、豊臣秀吉は既に天下人として日ノ本統一に王手をかけていました。

秀吉の許可と「朝廷の許可なく戦をおこなってはならぬ」というお触れを出しており、北条氏が従わなかったため攻めたのです。
北条氏は最後まで秀吉に従わなかった武将としても知られています。

従う意志が全くなかったわけではありませんでしたが、真田昌幸(真田幸村の父)との争いが原因で、小田原征伐の口実を与えてしまうことになってしまいました。

何とか抵抗しようと伊達政宗とも同盟を締結していただけでなく、かなり前から秀吉との戦いを念頭に準備していたとも言われています。
各地に山城などを築き、本拠の小田原城にも大規模な改修を加えていたとも言われています。

入念に戦に備えていた北条氏ですが、やはり天下人とも言える秀吉には叶いませんでした。秀吉は全国の大名に命じてなんと18万以上の兵を動員。

同盟を結んでいた伊達政宗も秀吉の下に参陣してしまい、味方がいなくなってしまった北条氏は籠城しましたが勝てる見込みはありません。
北条氏直が切腹を条件に開城を申し出て終結しました。
 

北条氏ってどんな武将?

この戦の主役となった北条氏とはいったいどんな武将だったのでしょうか。

北条という名前を聞くと、鎌倉幕府で代々執権を務めた北条氏を連想してしまいますが、この北条氏とは全く別の一族です。

室町幕府の御家人を務めていた伊勢盛時が関東に下って北条早雲と名乗ったのが始まりで、5代に渡って関東で勢力を維持しました。最盛期には徳川家康とも同盟を結んでおり、240万石とも言われる広大な領地を持つほど。

武田信玄や今川義元と領地が接していたため、同盟を結んだり争ったりと戦も繰り広げていましたが、領国運営がとてもうまかった一族として知られています。

例えば、農民から年貢を取り立てるにしても定期的に検地をおこなって正確な石高を把握していただけでなく、飢饉が起こったときには年貢を軽減するなど善政を布いていました。

各地の戦国武将につきもののお家騒動や廃嫡・跡目争いも、正妻を重んじることで無縁だったため、無駄に家臣を失ったり他国につけ入る隙を与えたりすることもなく、勢力を維持していたのです。

小田原征伐後は、傍系が残りました。江戸時代、河内狭山藩(現在の大阪府狭山市)の藩主を代々務め、明治維新を迎えます。その後も現在まで名を継いでいるそうです。

戦国時代と言えば、ほんの少し生まれた時期や運の違いで誰が天下を取ってもおかしくなかった時代。
ただ、関東を拠点にしていた北条氏にとってはいくら力があっても京の都が遠かったため、天下を取ることは難しかったかもしれません。
(葉月智世)
 
名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻
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2021年07月05日21時15分~抜粋

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