名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

血で川が染まるほどの激戦!姉川の戦い

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。6月28日の出陣は豊臣秀吉徳川家康、陣笠隊の足軽・なつの3名でした。

織田信長徳川家康軍が浅井長政・朝倉義景と戦った姉川の合戦は、戦国の世でもトップクラスの激戦でした。戦といえば、負傷者や討死者が出るのが定めですが、この合戦では舞台となった姉川の水が血で赤く染まったと言い伝えられるほど。どんな合戦だったのか、さっそく週刊戦国年表をみていきましょう。

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今週の週刊戦国年表は?

6/28~7/4の期間、戦国時代に起こった出来事を取り上げる「週刊戦国年表」。

今回の出来事は1570年(元亀元年)6月28日に起こった姉川の戦いについてです。
姉川の合戦は、近江国(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で織田信長徳川家康連合軍と、浅井長政・朝倉義景連合軍が激突した戦。勝利したのは織田・徳川連合軍でした。

この戦いは激戦となったため、戦の舞台となった姉川が負傷者や討死した者たちの血で染まったと言われています。現在でも合戦跡付近に「血原」や「血川」といった地名が残っているほどです。

当時、浅井長政の正妻は織田信長の妹君。縁戚関係にあるはずの信長と長政が激突してしまったのはどうしてでしょうか。
 

姉川の戦いが起こった理由

織田信長は尾張を統一した後、正妻である帰蝶(濃姫)の実家・斎藤氏が治めていた美濃(岐阜県)を手中に治めました。その後、京都への上洛を視野に入れた信長。上洛のためには近江を通らなくてはなりません。当時、北近江を治めていたのが浅井長政でした。

そこで、信長は長政に戦国一の美女と謳われた妹君・お市の方を嫁がせ、縁戚関係を結んだのです。

この縁戚関係がうまくいっているうちは良かったのですが…。
実は、浅井家は越前の朝倉義景とも同盟を結んでいました(縁戚だったとの説も)。信長が越前の朝倉義景を攻め始めたため、長政は板挟みになります。
どちらにつくか悩み、長政は朝倉氏に味方。信長と良好だった関係が崩れてしまいました。

姉川の合戦の2ヶ月前、越前を攻めていた織田軍の背後を突いた浅井長政。この裏切りで、信長は朝倉義景と長政に挟み撃ちにされかねない危険に陥りました。せっかく優位に越前を攻めていたのに撤退することに。

この時の撤退は、金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)として、信長の生涯においてピンチのひとつに数えられています。

もちろん、信長がこのまま終わらせるわけがありません。軍備を整えて浅井長政を攻め、姉川の合戦と繋がっていきました。
 

姉川の戦いの経過

1570年(元亀元年)6月28日の朝6時に始まったとされる合戦は、激闘となりました。

浅井長政・朝倉連合軍は、必死に戦うも徳川家康の家臣・榊原康政が浅井・朝倉連合軍の側面を突いたため、朝倉軍が総崩れになり敗走してしまいます。結果的に、長政も本拠の小谷城に撤退するしかありませんでした。

この合戦で、長政の実弟や重臣の遠藤直経など、たくさんの味方が討死。大きなダメージを受けてしまいました。

特に、遠藤直経は長政にとってこどもの頃からの傅役(教育係)的な存在で、失ったことは大きな痛手に。
直経は浅井軍が大敗になりかけた時、逆転勝利のため織田方の武将に成りすまし、「浅井の重臣の首を討ち取った」と嘘をついて信長の近くまで迫った末、斬られたと伝えられています。

浅井長政とお市の方の間には有名な三姉妹がいます。
長女が淀君(豊臣秀吉の側室)・お初の方(京極高次正妻)・お江の方(徳川家康の跡取り・徳川秀忠の後妻)と、それぞれ戦国武将に嫁ぎました。三姉妹も美女だったと言われています。

浅井長政が織田信長を裏切らなければ、織田家の重臣格にもなれた可能性があります。
もし長政が生きていたら、豊臣秀吉徳川家康の人生にも影響が出てしまったかもしれませんね。
(葉月智世)
 
名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻
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2021年06月28日21時15分~抜粋

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