名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

生誕日と死没日が同じ日!秀吉の子飼いと言われた加藤清正

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。6月21日の出陣は織田信長加藤清正、陣笠隊の足軽・太助の3名でした。

誕生と死没の月日が同じになることは、現代でもちょっと珍しいかもしれません。
しかし、戦国時代に生誕日と死没日が同じだった戦国武将がいました。

九州の肥後熊本藩主にまで上り詰め、豊臣秀吉子飼いと言われた戦国武将とはいったい誰でしょうか?

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今週の週刊戦国年表は?

6/21~6/27の期間、戦国時代に起こった出来事を取り上げる「週刊戦国年表」。
今回の出来事は1562年(    永禄5年)6月24日、加藤清正が生まれたことについて。

ちなみに、清正が亡くなった日は1611年(慶長16年)6月24日で、奇しくも生まれた日と亡くなった日が同じです。(当時は旧暦のため、厳密には違うとも言われます)

加藤清正が生まれた1562年といえば、戦国の三英傑である織田信長は28歳、豊臣秀吉は25歳、徳川家康は19歳。信長と家康が清州同盟を結んだ年。
ちょうど信長が桶狭間の戦いに勝利し、美濃を狙い始めていた頃でもありました。

三英傑より少し遅れて生まれた清正ですが、改めてどんな人生だったのか気になるところです。
 

加藤清正と豊臣秀吉の縁

刀鍛冶である加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれた加藤清正ですが、実は生まれた場所が豊臣秀吉と一緒です。

清正が3歳の時、父が死没。母と一緒に津島(愛知県津島市)に移り住みました。

豊臣秀吉の生母であった大政所と加藤清正の母が従姉妹(または遠縁の親戚とも言われています)だった縁で、近江の長浜城主となったばかりの秀吉に小姓として仕えることになった清正は、当時11歳でした。
その後、1576年(天正4年)に170石を与えられます。

清正と秀吉の因縁は、生まれた場所だけでなく母親同士も血縁があったとは驚きです。

秀吉は武士の生まれではなかったため、信長や家康のように代々仕えてくれている譜代の家臣がおらず、その時々で家臣を雇っていました。
母親の縁から仕えるようになった清正は、とてもありがたい存在だったのかもしれません。

その後の加藤清正

加藤清正は、豊臣秀吉の下で着実に出世を遂げていきました。

織田信長が自害した本能寺の変の翌年、秀吉と柴田勝家が激突した賤ヶ岳の戦いでは「賤ヶ岳七本槍」のひとりとして特に武功を挙げました。
褒賞として秀吉から3000石(厳密には、近江郡栗太郡1800石、山城国内50石、河内国讃良郡1097石の合計2947石)を与えられています。

賤ヶ岳の戦い以降、秀吉が徳川家康と激突した小牧・長久手の戦い、四国征伐、九州平定に参加していますが、ほとんど秀吉の周囲を守るか後方支援を担当していました。
戦いの要員というより、財務官僚として期待されていたようです。

秀吉が天下を取った後の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)でも活躍した清正でしたが、秀吉の死後は徳川家康に接近しました。

関ヶ原の戦いでは、家康の東軍に与して勝利しましたが、決して家康との関係が良かったというわけでもありませんでした。

家康と秀吉の子・豊臣秀頼との間をなんとか和解させようと、京都の二条城で両者の会見を取り持ちましたが、会見後熊本に戻る途中で発病。帰国後50歳で亡くなりました。

加藤清正といえば、黒田孝高(黒田官兵衛)・藤堂高虎と並ぶ築城の名手でも有名です。
清正の手がけた城は熊本城だけでなく、名護屋城(現在の佐賀県唐津市)、蔚山倭城(韓国蔚山広域市に慶長の役の際築いた城)、江戸城、名古屋城と現在に残る城に関わりました。

関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍側でしたが、どこまでも豊臣秀吉への忠義を持っていたと言われる加藤清正。生まれた時から深い縁で結ばれていたのかもしれません。
(葉月智世)
 
名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻
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2021年06月21日21時15分~抜粋

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