名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

日ノ本を守るために豊臣秀吉が出した命令とは

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。6月14日の出陣は徳川家康、加藤清正、陣笠隊の足軽・踊舞の3名でした。

現代の日本は、特定の宗教を熱心に信じている人はそれほど多くありません。
元旦には神社へ初詣に行き、結婚式は教会で、葬儀はお寺…といった感覚です。
しかし、歴史を紐解くと、日本では主に仏教が政治に影響を与えてきました。

戦国時代は鉄砲伝来とともに、宣教師が来日。ある宗教が日本でも広がり始めた時期です。
豊臣秀吉が出した命令とはいったい何だったのでしょうか?

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今週の週刊戦国年表は?

6月14日から20日までの期間、戦国時代に起こった出来事を取り上げる「週刊戦国年表」。
今回の出来事は1587年(天正15年)6月19日、豊臣秀吉が九州(筑前国箱崎(福岡県福岡市東区)で出した伴天連追放令(以下、バテレン追放令)について。

バテレンとは、ポルトガル語で「神父」を意味するpadreに由来していて、キリスト教(カトリック)のことです。

鉄砲が種子島に伝わり、宣教師が来日するまで日本では仏教(又は神道)を信仰していました。来日した宣教師は積極的にキリスト教を布教したため、日本でもキリスト教信者が増えていた時期です。

バテレン追放令は、宣教師が日本でキリスト教へ強制的に改宗させることを禁止・宣教師が20日以上、日本に滞在するのを禁止したもの。この追放令の裏には、日ノ本を守る意図がありました。
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戦国時代の信仰事情

宣教師が来日する以前は、仏教・神道を信仰していた日本。
戦国時代、武将たちは仏教徒に悩まされていました。民衆たちは一向一揆を起こし、武将たちが一揆の鎮圧に手を焼いていたことも事実です。

他にも、武将と寺院勢力の利害が対立してぶつかり合うこともありました。織田信長の比叡山焼き討ちや石山合戦は、日本史の授業には必ず出てきます。

キリスト教は織田信長が布教を許可したことで、各地にセミナリオ(神学校)を作り積極的に布教活動を開始。同時に南蛮貿易も行い、主に九州が拠点となっていました。

次第に、戦国大名の中にもキリスト教に改宗する者が出てきます。有名なところでは大友宗麟・蒲生氏郷・高山右近などがいました。

キリスト教に改宗した大名や部下たちの中には、地域の寺社仏閣を破壊したり、領民を海外へ輸出(人身売買)したりすることを黙認する者も現れました。南蛮貿易で武器・弾薬を手に入れるために積極的に宣教師を援助する大名もいたほどです。

ちょうど、この頃九州統一のために訪れた豊臣秀吉。日ノ本の領民が海外へ輸出されていたことを知ってしまいました。一説には、5万人の日本人が海外へ売られたと言われています。
 

バテレン追放令の内容とその後

日ノ本の領民が海外へ人身倍されていることを知った豊臣秀吉は、このまま放置することはできず、前述のバテレン追放令を出しました。

秀吉が出したバテレン追放令は、決してキリスト教を弾圧するものではありませんでした。信教の自由は保障しつつ、寺社仏閣の破壊や人身売買を禁じるもの。南蛮貿易の継続も認めていました。

追放令を出した目的のひとつに、キリスト教徒が一向一揆のようになっては困るといった思惑もあったと言われています。

信教の自由を認めてはいたものの、現実にはキリシタン大名の立場が微妙になり再度、仏教に改宗する者も多数出てきました。

江戸時代になると、徳川秀忠は1613年(慶長18年)にキリスト教禁止令を出しました。
キリスト教を禁止し、領民は必ずどこかのお寺の信徒(檀家制度)になるよう定めます。キリスト教徒かどうか確認するために踏み絵を行ったことはよく知られているところ。

どうしてもキリスト教を捨てられなかった人たちは、隠れキリシタンになりました。その後起こった島原の乱は、キリスト教徒が起こした反乱として幕府が厳しく弾圧したことを日本史の授業で習った人も多いでしょう。

豊臣秀吉が日ノ本の民を守るために出したバテレン追放令は、徳川家康が開いた江戸幕府になると禁止・弾圧に繋がっていったのでした。

現代の日本では考えられないことですが、今よりも宗教が生活と密接だった時代だからこそ、規制せざるを得なかったのかもしれませんね
(葉月智世)
 
名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻
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2021年06月14日21時16分~抜粋

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