名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

上杉景勝が豊臣秀吉に従うまでの道のり

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。6月7日の出陣は豊臣秀吉、前田慶次、陣笠隊の足軽・太助の3名でした。

上杉景勝と言えば、あの上杉謙信の後継者になった武将。部下には大河ドラマ「天地人」で主役となった直江兼続がいます。

そんな景勝が後継者になるまでの道のりや、豊臣秀吉に従いわざわざ京都に上洛した理由、その後の末路が気になるところです。

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今週の週刊戦国年表は

6/7~6/13の期間、戦国時代に起こった出来事を取り上げる「週刊戦国年表」。

今回の出来事は1586年(天正14年)6月7日、上杉景勝が豊臣秀吉に謁見するために京都へ上洛してきた件について。

織田信長が本能寺で自害した後、天下を手中に治めかけていた豊臣秀吉は畿内・東海と平定していました。徳川家康との激突にも勝利していた秀吉にとって、残すは関東や奥州などを残した状況でした。

一方、上杉景勝と言えばあの上杉謙信の後継者。上杉家は室町時代から続く名門で、戦国武将の中でも群を抜いた家柄です。
農民の生まれだと言われる豊臣秀吉とは比べ物にならない家格の上杉景勝。
そんな上杉景勝が豊臣秀吉に謁見に来た理由が気になるところです。
 

上杉家の内情

当時の上杉家はいったいどんな状況だったのでしょうか。

遡ること1578年(天正6年)3月13日、上杉謙信が死去すると上杉家では後継の座を巡ってお家騒動が勃発していました。
謙信が後継者を指名しないまま急死してしまったこと、実子がいなかったことが原因です。
このお家騒動は2年続き、後を継いだのが上杉景勝。

織田信長との戦いでは窮地に立たされましたが、1582年(天正10年)6月2日に本能寺の変が起こったことで上杉家は九死に一生を得ます。

その後、領内の立て直しと同時に織田家の後継争いで台頭してきた豊臣秀吉と手を組むようになりました。
秀吉が柴田勝家と激突した賤ヶ岳の戦いや、織田信雄(織田信長の三男)・徳川家康連合軍と激突した小牧・長久手の戦いでも秀吉方として参戦しています。

こうした関係ができていた中で、上杉景勝は前述通り豊臣秀吉に改めて京都へ上洛し謁見。人質に養子・畠山義真(当時は上杉義真)を差し出して臣従を誓いました。
 

先見の明があった景勝

当時、天下人に近かった豊臣秀吉に臣従して下越地方の新発田氏討伐や、出羽国庄内地方の切り取りの許しを得た上杉景勝。臣従した景勝に対し、秀吉は正親町天皇に拝謁させた上で左近衛少将に任じられるように根回しまでしました。

素直に従う武将には寛容な態度を取り、結果的に天下人となった秀吉。景勝は、主君を見極める先見の明があったと言えます。
反対に、最後まで秀吉に従わなかった北条家は後に小田原征伐と称して秀吉に大規模な戦の後、降伏することになってしまいました。

ここまでは、上杉家もお家騒動のダメージを回復しただけでなく、秀吉には五大老に任じられたり、会津120万石の太守となったりと順調だったのですが、豊臣秀吉の死後、情勢を読み切れずに徳川家康とは対立してしまいました。
関ケ原の戦いの後は領地を大幅に減封され、力を削がれる結果になってしまいます。

誰に従うか、またはどうやって戦いながら領地を拡大していくかは家の命運がかかっており、生き馬の目を抜くような状況の変化を読むのは大変だったことがわかりますね。

戦国時代には「この武将がもう少し長生きしたら」「もう少し早く(遅く)生まれていたら」「この地域ではなく、あの地域を治めていたら」といった「もし〇〇だったら」が少しでも変わってしまうと、今わたしたちが知る歴史は大きく違っていたはずです。

それくらい、魅力的な武将たちが綺羅星のようにいた戦国時代。

名古屋おもてなし武将隊(R)の武将たちも、そんな「もし〇〇だったら」を乗り越えたからこそ、歴史に名を残す武将として現在まで語り継がれているのかもしれません。
(葉月智世)
 
名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻
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2021年06月07日21時16分~抜粋

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