名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

「本能寺の変」の舞台と織田信長の意外な関係

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。5月31日の出陣は織田信長豊臣秀吉、陣笠隊の足軽・なつの3名でした。

本能寺の変があったとされる6月2日は、信長忌として今でも法要が行われているほどです。当然、主君である織田信長を襲った明智光秀は反逆人ですが、なぜ信長は本能寺に泊まっていたのでしょうか?

信長目線から見た本能寺が、どんな存在だったのか気になるところです。

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今週の週刊戦国年表は?

5/31~6/6の期間、戦国時代に起こった出来事を取り上げる「週刊戦国年表」。
今回の出来事は1582年(天正10年)6月2日、明智光秀が主君であった織田信長を襲った「本能寺の変」について。

本能寺の変は6月2日早朝、明智光秀の軍勢が本能寺にいた織田信長と、近くの二条新御所にいた跡取りの長男・織田信忠を討った大事件。

この事件を語る時は必ず「誰が黒幕なのか」という推理が定番です。たくさんの歴史小説やドラマもあり、去年は『麒麟が来る』で明智光秀の目線が描かれました。

しかし、なぜ織田信長は本能寺にいたのでしょうか。本能寺と織田信長の関係はいったどんなものだったのか気になるところです。
 

本能寺と織田信長の関係

本能寺は当時、日承上人が住職を務めていました。
日承上人は皇族の血を引いており、朝廷とも太いパイプを持っていた人物です。公家・天皇家とも懇意にしていたため、織田信長にとってはとても魅力的な人物でした。

この頃の信長は、室町幕府第15代将軍の足利義昭を追放してさらに天下が近くなってきた時期です。

中国地方の戦国大名である毛利氏との戦いに豊臣秀吉を投入、四国平定のため長曾我部氏の攻略を明智光秀に任せていました。
他にも、越後の平定には柴田勝家・前田利家を、関東の攻略には滝川一益と、重臣たちを各地に投入しています。

その一方で、本能寺の日承上人と仲良くしておけば、いずれ征夷大将軍になるときに有利と考えていたようです。征夷大将軍の任命権は天皇が持っているため、仲介をしてもらおうとしていたのかもしれません。

他にも、本能寺は物流の拠点でもありました。
信長が鉄砲を戦いにうまく取り入れていたことは知られていますが、鉄砲を撃つためには大量の火薬が必要です。
本能寺は火薬を仕入れる独自ルートを持っており、信長にとっては朝廷とのパイプと同様に必要不可欠なものでした。

実際、本能寺には何度か宿泊しており、いい関係を築いていたと言われています。
「本能寺の変」が起こったのは4度目の宿泊時でした。
 

信長の墓所はどこにある?

本能寺の変後、明智光秀は血眼になって織田信長の遺体を探していました。
もし信長が逃げていたら…処罰されるのは火を見るより明らかです。

光秀自身の目で信長が死んだことを確認し、世間に証拠を示さなければ今後の権力争いにも不利になります。

しかし、ついに信長の遺体は見つかりませんでした。

本能寺に火をつけたことで、火薬などもあったため燃え盛り、遺体の損傷が激しく区別がつかなかったと言われています。

一説によれば、清玉上人が信長と深い親交があり、炎上する本能寺から信長の骨を密かに運び出して住職を務めていた阿弥陀寺に密かに葬ったと伝わり、現在は信長の公式墓所として扱われています。

その後、明智光秀を討った豊臣秀吉が「我こそが信長の後継者だ」とアピールするために、信長の葬儀を執り行おうとしました。

そこで、秀吉は阿弥陀寺に再三「高額な法事料や広大な寺領を与えるから、主君(信長)の遺骨を渡せ」と要求。しかし阿弥陀寺側は政治的利用を嫌って拒否しました。
怒った秀吉は、阿弥陀寺の寺領を大幅に没収して報復します。

結局遺骨がないまま、秀吉は盛大に信長の葬儀を執り行い、信長の後継者であることを世間に知らしめました。阿弥陀寺に対抗して、大徳寺の総見院を建立しています。

信長の墓所と言われる場所は他にも10カ所以上あり、京都以外にも高野山・安土・岐阜・富山・静岡にあります。これだけ墓所が多い戦国武将も、なかなかいません。

本能寺と信長の関係も驚きですが、本能寺の変後も遺体を巡って争いがあったとは、それだけ存在が偉大だったとも言えます。
(葉月智世)
名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻
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2021年05月31日21時16分~抜粋

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