名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

明智光秀の連歌会開催は本能寺の変と関係があったのか

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。5月24日の出陣は加藤清正、前田慶次、陣笠隊の足軽・踊舞の3名でした。

標題の本能寺の変は必ず日本史の授業で習うほど、誰もが知る史実。
主君の織田信長を襲った明智光秀は謀反人と扱われ、その後の日本史を大きく変えた大事件でした。
本能寺の変の数日前に、光秀が愛宕山で催していた連歌会。その連歌会と本能寺の変に何か関係はあったのでしょうか。さっそく週刊戦国年表をみていきましょう。

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今週の週刊戦国年表は?

5/24~5/30の期間、戦国時代に起こった出来事を取り上げる「週刊戦国年表」。

今回の出来事は1582年(天正10年)5月28日、明智光秀が催した連歌会について。
この日、明智光秀は京都の愛宕山にある威徳院(愛宕神社とも言われています)で連歌会を開催しました。

連歌とは、和歌が変化したもの。和歌は「五・七・五・七・七」をひとりで詠みますが、連歌は上の句「五・七・五」と下の句「七・七」を分け、複数の参加者で繋いで完成させていきます。参加者は大体5~10人で、50韻あるいは100韻連ねるのが一般的でした。

戦国時代、連歌は武将たちの間でとても流行っており、茶道と並び嗜みのひとつ。上手に詠めるに越したことはありません。連歌師と呼ばれる職業まであるほどで、連歌をうまく詠めることは一種のステータスであり、外交などの武器にもなりました。

連歌会が催された数日後、本能寺の変が起こります。この連歌会と本能寺の変に何か関係はあったのでしょうか?
 

織田信長が明智光秀に命じたこと

この頃、織田信長の下で出世を遂げていた豊臣秀吉は、中国攻めを行っていました。

中国地方の戦国大名、毛利輝元たちと戦っていた秀吉は、織田信長に援軍を要請。
援軍に行くように命じられたのが明智光秀でした。

この命令を受けて、光秀が愛宕山に参詣して開催したのが前述の連歌会。
連歌会はおもてなしの時に行われるものと、合戦に出陣する前に行う出陣連歌があり、光秀が催したのは出陣連歌会です。

この時に詠まれた連歌は「愛宕百韻(あたごひゃくいん)」として残っており、戦国時代に催された連歌会の中でもトップクラスの知名度です。
参加者は明智光慶、東行澄、里村紹巴、里村昌叱、猪苗代兼如、里村心前、宥源、威徳院行祐だったと記録に残っています。

この時に詠んだ光秀の発句は「ときは今 あめが下しる 五月かな」でした。
解釈は諸説ありますが、明智光秀の先祖の姓である「土岐」と掛け、「雨が下」と「天が下」を掛けて「主君の織田信長を討つ」という宿願を込めたものだという説があります。
もちろん、真相は今のところ推測の域を出ません。

しかし連歌会の後、明智光秀が軍勢を率いて向かった先は命じられていた中国地方ではなく、織田信長が宿泊していた京都の本能寺でした。
 

本能寺の変が起こった理由

本能寺の変が起こった理由については、様々な説があります。

直前に織田信長にひどく扱われたことや、以前から「ハゲ」などと言われて叱責がきつかったため、明智光秀が恨みを持っていたとする怨恨説。

信長に天下を取ってほしくない京都の朝廷(天皇や公家たち)が、裏で糸を引いていたとする朝廷黒幕説。

四国の長曾我部氏との仲介をしていた光秀の面目を潰すような命令を出した信長に対する反逆説。

その他にも、黒幕が豊臣秀吉や徳川家康だったといった説まで、ありとあらゆる説があり、どれが本当かわかっていません。

しかし、近年は少しずつ研究が進んでおり、近い将来真相がわかる文書などが発見されるかもしれません。

本能寺の変の後流れをうまく掴み、得したのは天下人になった豊臣秀吉でした。しかし、秀吉も老いには勝てず死去。
最後に天下を手中にした徳川家康こそ、誰よりも運が良かったと言えそうです。天を味方につけた家康が戦国最強かもしれませんね。
(葉月智世)
 
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2021年05月24日21時13分~抜粋

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