名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

織田・徳川連合軍と武田勝頼が激突した「長篠の戦い」

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。5月17日の出陣は織田信長徳川家康、陣笠隊の足軽・太助の3名でした。

標題の「長篠の戦い」は、織田信長徳川家康にとって大切な戦でした。

直前まで、反織田包囲網として身動きが取れなかった信長、武田信玄軍の攻撃にさらされて窮地に陥っていた家康が、この戦の勝利を機に反撃に転じたからです。
では、長篠の戦い以前の状況はどうなっていたのでしょうか?

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今週の週刊戦国年表

5/17~5/23の期間、戦国時代に起こった出来事を取り上げる「週刊戦国年表」
今回の出来事は1575年(天正3年)5月21日、織田・徳川連合軍と武田勝頼軍が激突した長篠の戦いについてです。

長篠・設楽原(ながしの・したらがはら)一帯で行われたこの戦い。
日本史の授業でも必ずといっていいほど取り上げられる、戦国時代の戦でも屈指の知名度を誇ります。
『長篠合戦図屏風』という屏風には、織田・徳川軍が鉄砲を用いたことに対し、武田軍が騎馬隊で応戦した絵図が描かれています。見たことがある人もいるでしょう。

この戦いが勃発するまでには、微妙な力関係・駆け引きがありました。

当時の織田信長徳川家康たち戦国武将の動向はどうなっていたのでしょうか?

反信長包囲網で信長と家康がピンチ!

これより少し前、織田信長は足利義昭を擁して京都へ上洛。
義昭を室町幕府15代将軍にして、実質的な後見役として京都をはじめとする畿内にも勢力を拡大していました。

その頃、織田信長は甲斐の武田信玄と同盟を結んでいたのですが…。

信長と足利義昭の関係が悪化すると、義昭は「反信長包囲網」を作ろうと各地の有力な戦国武将に手紙を書きます。その手紙に応じて、上洛作戦を開始したのが武田信玄でした。

武田軍が徳川家康の領地を攻撃し始めたことで、家康は大ピンチ。
織田信長に援軍を要請しますが、信長も思うように動けない状況に陥っていました。

しかし武田信玄は上洛の最中に病死してしまい、武田軍は甲斐に戻ってしまいます。
織田信長徳川家康は九死に一生を得ることになり、反撃のきっかけとなっていきました。
 

長篠の戦いの経過

前述の通り、武田信玄の死によって織田信長徳川家康は反撃に転じます。

まず、家康は武田信玄に奪われた三河・遠江を取り返しにかかりました。
その最中、奥三河の国衆だった奥平貞昌(後の奥平信昌)が武田方から徳川方へ味方。家康は奥平貞昌に長篠城を任せました。

武田信玄の後を継いだ武田勝頼は、1575年4月に大軍で三河へ侵攻、5月には長篠城を包囲。しかし長篠城には500人しかいませんでした。

武田軍15,000に対して必死で長篠城を守り抜き、織田軍30,000と徳川軍8,000の援軍が到着。ここで激突したのが「長篠の戦い」となりました。
結果は鉄砲をうまく用いた織田・徳川軍が勝利し、この後武田勝頼は甲斐での力が弱体化、最終的に武田家は滅亡しました。

長篠城を守り抜いた奥平貞昌は、織田信長から「信」偏諱を賜り「信昌」と改名。徳川家康の長女、亀姫を正妻にもらっただけでなく、家康所有の名刀「大般若長光」も賜る栄誉にあずかりました。

さらに「信昌の重臣含め、知行などを子々孫々に至るまで保証する」というお墨付きまでもらい、結果的に貞昌を祖とする奥平松平家は明治まで続く大名として残ります。

もし、武田信玄があと数年長生きしていたら戦国時代は大きく変わっていたはず。
天下人となるには、幸運に恵まれることも必要です。

戦国武将たちの運命は本当に紙一重。
だからこそ、今も昔も人々は「もしも、こうだったら…」と想像して楽しんでいるに違いありません。
(葉月智世)
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名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻
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2021年05月17日21時15分~抜粋

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