名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

豊臣秀吉がやむなく処刑した佐久間盛政とはどんな人物?

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。

5月10日の出陣は豊臣秀吉、加藤清正、陣笠隊の足軽・踊舞の3名でした。

とても勇猛果敢で武功と体格に優れ、豊臣秀吉が「自分の家臣にしたい」と熱望するほどと言われた武将・佐久間盛政。

しかし、「一国を与えるから家臣になれ」何度も口説くも叶わず、やむなく処刑せざるを得なかったのです。どんな経緯があったのでしょうか?

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今週の週刊戦国年表

5月10日から16日の期間、戦国時代に起こった出来事を取り上げる「週刊戦国年表」。

今回の出来事は1583年(天正11年)5月12日、豊臣秀吉が佐久間盛政を処刑したことについて。

佐久間盛政は、織田信長の家臣でした。
信長の重臣だった柴田勝家の甥で、与力(信長から勝家に派遣された武将)として活躍しており、武勇・体格ともに非常に優れた武将でした。
別名、「鬼玄蕃(おにげんば)」と呼ばれるほど勇猛果敢だったと言われています。

実は佐久間盛政を処刑したくなかった秀吉。
「自分の家臣にならないか」と何度も口説いたものの、頷いてもらえなかったために、止む無く処刑することになったそうです。

処刑に至るまでには、織田信長亡き後の織田家重臣の対立が関係していました。そして、処刑に繋がるのが「賤ヶ岳の戦い」でした。
始まりは、1582年(天正10年)6月2日に起こった、本能寺の変にさかのぼります。
 

信長亡き後、織田家の動向

1582年(天正10年)6月2日に起こった「本能寺の変」以後のことをおさらいしましょう。明智光秀に襲われた織田信長と後継者だった長男の織田信忠が自害。

織田信長の重臣だった明智光秀は裏切り者として、中国大返しで急遽戻って来た豊臣秀吉に山崎の戦いで敗れ去りました。残った信長の重臣、柴田勝家と豊臣秀吉が清須会議以降、次第に対立を深めていきます。
この2人が激突したのが「賤ヶ岳の戦い」でした。

賤ヶ岳の戦いで、佐久間盛政は大活躍して武功を挙げます。しかし、前田利家の裏切りなどもあり、柴田勝家が敗北。再起を図るために加賀国へ落ち延びる途中に捕えられました。

佐久間盛政は捕まった時、豊臣秀吉の家臣だった浅野長政に「鬼玄蕃とも言われたあなたが、なぜ敗れて自害しなかったのか」と愚弄されます。
しかし、「源頼朝公は大庭景親に敗れた時、木の洞に隠れて逃げ延び、後に大事を成したではないか」と言い返して周りの者を感心させたと伝わっています。
 

佐久間盛政の最期

前述の通り、佐久間盛政は勇猛果敢で身の丈が6尺(180cm)もあり、ぜひ自分の家臣にしたいと熱望した豊臣秀吉。

「九州を平定したら、肥後一国を与えるから儂の家臣にならぬか」と繰り返し口説きました。

しかし、どんなに口説かれても盛政は頑なに頷きません。

「織田信長様や柴田勝家様から受けた大恩を忘れられない。豊臣秀吉様の好意には感謝しているが、このまま生きていれば私はいつかきっと貴方様(秀吉)を討つだろう。だからいっそ死罪を申し付けてほしい」と譲りませんでした。

口説き落とすことを諦めた秀吉は「せめて武士の名誉である切腹を」と思い、切腹を命じますが、盛政は拒否。「敗軍の将として、処刑してほしい」と強く望みました。

さらに「死に装束は思い切り目立ちたい。あれこそ盛政ぞと言われて死にたい」と願った盛政の望み通り、派手な小袖を身に纏うことを許し、京の市中を引き回しの上、処刑しました。享年29でした。

これほどの武将を処刑せざるを得なかった豊臣秀吉は、本当に残念だったに違いありません。
「肥後一国を与えるから家臣になれ」と口説いたことからも、どれほど家臣にしたいと熱望していたかが分かります。

もし、盛政が口説かれて秀吉の家臣になっていたら、どんな活躍をしたのか想像してしまいます。後年、天下人となった秀吉を支える重臣になっていたかもしれません。
(葉月智世)
 
名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻
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2021年05月10日21時14分~抜粋

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