名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

徳川家康を激怒させた噂の書状、直江状の内容とは

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。5月3日の出陣は徳川家康、前田慶次、陣笠隊の足軽・太助の3名でした。

標題の直江状。これは徳川家康がある戦国大名に送った書状の返書で、この書状を受け取った家康は激怒。その後、会津征伐および関ケ原の戦いにもつながっていきました。
では、直江状とはいったいどんな内容だったのでしょうか?

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今週の週刊戦国年表

5/3~5/9の期間、戦国時代に起こった出来事を取り上げる「週刊戦国年表」。

今回の出来事は1600年(慶長5年)5月3日、徳川家康宛に届いたある書状について。
これは俗に「直江状」と言われるもので、この書状を受け取った家康は激怒したと言われています。

この書状を送ったのは、上杉景勝(上杉謙信の後継)の家臣だった直江兼続でした。
直江兼続については、大河ドラマ『天地人』では主役となり、近年では『真田丸』にも登場しており、歴史ファンにはよく知られた存在です。
兜前面に付ける前立(まえだて)に「愛」の字を掲げていたことでも知られています。

なぜ、徳川家康は直江兼続からこのような書状を受け取ることになったのでしょうか?
これは、当時の世情や家康をはじめとする戦国武将たちの力関係に原因がありました。
 

直江状が送られた経緯

まず、1600年はどんな年だったのでしょうか?
1598年9月に天下人だった豊臣秀吉が死去、徳川家康と双璧を成した五大老の前田利家も後を追うように1599年4月に病死しました。

このふたりが相次いで亡くなったこと、秀吉の後継者である豊臣秀頼が幼かったこともあり、次第に戦国武将の中で徳川家康が次第に勢力を強め、天下を狙うようになっていました。同年9月に関ケ原の戦いが勃発したことを、歴史で習ったのではないでしょうか。

徳川家康は1600年2月に、同じ5大老だった会津の上杉景勝へ書状を送ります。
家康は西笑承兌に「謀叛の噂が流れているため、早期の上洛を勧める」と書状を書かせて、伊奈昭綱と河村長門(増田長盛の家臣)に届けさせました。

4月13日に会津に到着して上杉景勝にこの書状を渡しますが、この内容に怒った直江兼続は4月14日付で上洛を拒絶する返書を送りました。これが直江状です。

内容は、家康が送った書状に対する徹底した反論。そして喧嘩口調とも取れるほどの内容でした。
この返書を受け取った徳川家康は前述の通り激怒し、この書状を大義名分として会津攻めを決意しました。
 

直江状を受け取った後の家康は?

前述の通り、この直江状をきっかけに家康は同じ五大老だった上杉景勝を攻める口実にし、天下に近づく機会に利用しようとしました。

1600年6月、徳川家康は関東の武将たちに会津征伐の陣触れを出します。同時に時の天皇だった後陽成天皇からも会津攻めのお墨付きをいただいたのです。

上杉景勝は窮地に陥り。このまま両者が激突するかと思われましたが、この後大坂では石田三成たちが「徳川家康は豊臣秀吉の遺志を無視して天下を狙う反逆人だ」と反家康の軍勢を集め始めました。

この反家康の軍勢が関ケ原の戦いで西軍となります。
家康は、会津に向かう途中でしたが、会津征伐を中止。そのまま進路を変えて西へ向かいました。これが東軍となり、西軍と結果的に関ケ原で激突したのです。

「関ケ原の戦い」は徳川家康率いる東軍が勝利。
もちろん、上杉景勝も無事では済みませんでした。改易(家の取り潰し)は免れましたが、会津120万石のから米沢30万石大きく領地を減らされてしまいます。
直江状を受け取った怒りは、そう簡単には消えなかったのでしょう。

ここまで家康を激怒させた直江状は偽物だったという説もありますが、真相は闇の中。
いつかこの謎が解き明かされる日が来るといいですね。
(葉月智世)
 
名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻
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2021年05月03日21時13分~抜粋

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