名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

豊臣秀吉がこよなく愛した有馬温泉

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。4月26日の出陣は織田信長豊臣秀吉、陣笠隊の足軽・なつの3名でした。

標題の有馬。豊臣秀吉がこよなく愛したのが有馬温泉でした。温泉と言えば日本全国にたくさんあるものの、秀吉が通い詰めたのは有馬だったのです。

秀吉はなぜ有馬温泉をなぜ知っていたでしょうか?そして、通い詰めるほど愛した有馬温泉の魅力とは?

「週刊戦国年表」コーナーで取り上げられた出来事を見ていきましょう。

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今週の週刊戦国年表

4/26~5/2の期間、戦国時代に起こった出来事を取り上げる「週間戦国年表」。
今回の出来事は、1594年(文禄3年)4月29日に豊臣秀吉が有馬(現在の兵庫県)に湯治(とうじ)に出かけたことについて。同じ年、秀吉は有馬の地に別荘まで建てています。

秀吉は、有馬温泉をこよなく愛していました。何度も通っており、時には正室のねね(北政所)と夫婦そろって温泉へ休養にきたと記録に残っているほどです。

戦国時代、武将をはじめ、公家などの貴人が湯治と称して温泉でケガや病気の療養を目的に滞在することは珍しいことではありませんでした。
これは日本だけでなく、世界史を見ても古来より貴人が温泉(スパとも呼ばれます)でケガや病気の療養に利用することはよくあったようです。

貴人ではなくても、ローマの公衆浴場など、庶民にも湯に入る文化があったことはよく知られています。

秀吉を虜にした有馬の地。秀吉と有馬の関わりはどのように始まったのでしょうか。そして、それほど秀吉を惹きつけた有馬の魅力とはなんだったのか気になるところです。
 

秀吉と有馬の関わり

有馬温泉は、摂津国(現在の兵庫県神戸市北区)にあります。
そもそも、豊臣秀吉が有馬の地を最初に訪れたのは1579年(天正7年)。播磨の別所氏が治めていた三木城攻略に必要な道を有馬の住民に作らせたことが始まりです。

『有馬地誌』によれば、2年に及ぶ籠城戦の末、別所長治が自害して三木城が開城した1581年(天正8年)2月に秀吉は初めて有馬温泉でゆっくりと浸り、戦の疲れを心ゆくまで癒したと言われています。2年も戦った後となれば、きっと疲労困憊だったに違いありません。
これで有馬温泉をとても気に入った秀吉は、その後も事あるごとに通い詰めました。

実は、秀吉は有馬で茶会を開催したこともあるのです。

秀吉の催した茶会と言えば、1587年に京都の北野天満宮で開催した北野大茶会が有名。
しかし、1590年(天正17年)9月に有馬の地で開催した有馬大茶会もまた豪勢なものでした。秀吉が愛用していた銘茶器「鴫肩衝」をわざわざ持参したと『善福寺文書』に残っています。
 

現在の有馬温泉

有馬温泉は豊臣秀吉が通い詰める以前から、多くの貴人に愛されてきました。
最初に有馬が知られたのは、第34代舒明天皇(593~641年)、第36代孝徳天皇(596~654年)の度重なる行幸があったことが始まりと言われています。

その後、奈良時代の高僧である行基や、平安時代になると貴族たちに愛されました。清少納言の『枕草子』には「出湯は、ななくりの湯、有馬の湯、那須の湯、つかさの湯、ともに湯」と当時、天下の名湯だったことが記されているほど。その後も、時の権力者や貴人に愛され続けて現在に至ります。

現在の有馬温泉は「濃すぎる濁り湯の金泉」と、「すっきり透明な銀泉」ふたつの種類があります。どちらも、ゆったりと疲れを癒すにはもってこいの名湯、入り比べてみるのも一興です。
有馬温泉駅から歩いてすぐのところには「太閤秀吉像」と「太閤橋」が、その向かいに正妻ねね(北政所)をかたどった「ねね(寧々)像」と「ねね橋」があり、秀吉がこの地を愛して通い詰めたことを地元の人たちが今でも語り継いでいることが分かります。

いつか有馬を訪れる機会があれば、秀吉がこの地を愛したことに思いを馳せながら疲れを癒すのもいいかもしれません。
(葉月智世)
 
名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻
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2021年04月26日21時12分~抜粋

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