名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

豊臣秀吉が命じた「小田原征伐」。紆余曲折した経緯とは?

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊®が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。

4月5日の出陣は前田利家、加藤清正、陣笠隊の足軽・太助の3名でした。

標題の小田原征伐。当時、豊臣秀吉はほぼ天下を掌中に収めており、残るは関東と奥州(東北地方)という状況でした。その小田原城を拠点に関東を支配していた戦国大名が北条家。

当時の北条家はとても強大で、小田原城以外にも支城がたくさんある状況。本拠の小田原城にたどり着くまでには、紆余曲折があったようです。

今回「週刊戦国年表」で取り上げたのは、この小田原征伐についてです。

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今週の週刊戦国年表は…

毎回放送週に、戦国時代に起こった出来事を取り上げる「週間戦国年表」。

今回の出来事は、1590年(天正18年)4月6日に開始した「小田原征伐」について。

小田原征伐とは、豊臣秀吉が小田原城の北条家を攻めた戦のことです。
北条家は北条早雲から始まり、北条氏直まで5代続いた戦国大名(鎌倉幕府の執権だった北条家とは違います)。

ちなみにこの小田原征伐後、豊臣秀吉の命で関東へ領地替えとなったのが徳川家康でした。

小田原城を包囲するためには、まず北条氏が支配している支城を攻め落とす必要があります。北条氏はたくさんの支城を治めており、豊臣軍は小田原城にたどり着くまでに幾つもの支城を落として進軍していきます。
この時、豊臣秀吉に従っていた武将の大半が動員されましたが、特に活躍したのが前田利家・上杉景勝・真田昌幸などでした。

前田利家たちは、松井田城・岩槻城・鉢形城・館林城と順調に攻め落として小田原城に近づいていきましたが、どうしても落とせなかった城がありました。
それが忍城(おしじょう)です。
 

忍城の戦い

忍城の戦いは、武蔵国の忍城(後の埼玉県行田市)付近で起こった戦い。

この時、忍城を攻略するよう豊臣秀吉より命じられていたのが石田三成でした。
当時の忍城は成田氏が代々治めていて、周囲に元荒川・星川が流れて自然の堀を形成しており、関東七名城の一つに数えられ、攻略難度が非常に高いとされていました。

石田三成は、まず城の大宮口に本営を設け攻撃してみましたが、城の守りが固く突破できません。
その後、前田利家・上杉景勝・真田昌幸たち北国勢、浅野長政や木村重茲・徳川勢の浅野隊が合流し、忍城を攻撃しますがやはり落ちません。

そこで石田三成は、豊臣秀吉から指示を仰いで水攻めを行います。この水攻めは、備中高松城の戦い、太田城の戦いと共に日本三大水攻めのひとつに数えられています。
水攻めを行ったものの、どうしても忍城本丸だけは沈みませんでした。

結局、7月16日に忍城は開城しました。とても時間がかかった上に、落とせたとは言いがたい結果に終わったのがこの忍城の戦いでした。
 

小田原征伐その後

小田原の北条氏と同盟を結んでいた伊達政宗が、豊臣秀吉の参陣要請(要求)に応じて奥州から小田原へ参陣して秀吉に忠誠を誓ってしまいました。

この結果、外には北条氏に味方する大名がいなくなってしまったのです。

こうなってしまうと、いくら堅城に籠っていても勝ち目はありません。北条氏の家臣の中にも、豊臣方に寝返る者が出てくる始末。

7月5日に、北条家5代目当主だった北条氏直は己の切腹と引き換えに小田原城の城兵の助命を申し出ました。この申し出によって、小田原城は開城。小田原征伐は終了しました。

先述の通り、忍城はこの小田原城開城の後である7月16日に開城しています。最後まで落ちなかった忍城の堅牢さには驚くばかりです。

北条氏はこの後、氏直の従兄弟だった氏規が数千石を継ぎますが、のちに病死。
養子となった氏盛が後を継ぎ、子孫は江戸時代に狭山藩主(現在の大阪府狭山市付近)として残りました。

実は、有名だった戦国武将の末裔が江戸時代から明治まで大名や旗本として続いたケースは他にもあります。例えば、織田信長や今川義元の子孫など、血筋が今に残っていることも珍しくないのです。残念ながら、豊臣秀吉の血筋は大坂の陣(1614-1615年)で滅ぼされています。

もし、豊臣家の血筋が現代まで残っていたらと思うと残念ですね。
(葉月智世)
 
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2021年04月05日21時14分~抜粋

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