名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

徳川幕府の象徴 江戸城の改修が与えた多大な影響とは

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。

3月29日の出陣は徳川家康、前田慶次、陣笠隊の足軽・踊舞の3名でした。

標題の江戸城。別名、江城(こうじょう)および千代田城(ちよだじょう)。江戸時代を通じて幕府が置かれた地であり、歴代の徳川将軍が住んでいた城。現在は皇居と呼ばれ天皇家の方々がお住いになっています。ちなみに、江戸時代に天皇家が住んでいたのは京の都でした。

「週刊戦国年表」コーナーで取り上げられたのは、この江戸城にちなんだ話題です。

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今週の週刊戦国年表は…

3/29~4/4の期間に、戦国時代起こった出来事を取り上げる「週刊戦国年表」。

今回の出来事は1607年(慶長12年)に、徳川家康が命じた江戸城改修について。

徳川家康は最初、三河地方(愛知県東部)が拠点でした。徐々に岡崎城、浜松城、駿府城と居城を変え、豊臣秀吉が北条氏を攻めて降伏させた小田原攻めの後、秀吉から北条氏の治めていた関東へ移封(いほう:所領を別の場所に移すこと)を命じられて、江戸城へと本拠を移したのです。

元々の江戸城は、麹町台地の東端に、扇谷上杉家の家臣であった太田道灌が築いた平山城でした。

家康が江戸城に移った当初は小さく、築城から年月が経っていたために荒れ果てた城でした。そこで家康は江戸城を徐々に改修していき、江戸城だけでなく、江戸の町を当時の世界でも有数の都市に発展させていったのです。

その甲斐があって現在の世界でも有数の大都市、東京につながっていきました。
 

江戸城の改修は複数回

当初の改修は、荒れ果てた城を改修して住めるようにすること、奥州などの監視としての意味合いが強かったようです。

江戸に本拠を移した頃は、豊臣秀吉が天下人として君臨していました。
徳川家康は、あくまでも豊臣秀吉の家臣であり、五大老の筆頭という立場でしかなかったのです。

豊臣秀吉が病没した後、歴史に残っている通り石田三成らと対立し、関ケ原の戦いが勃発。関ケ原の戦いに勝利した家康は京都の朝廷から征夷大将軍に任じられて江戸で幕府を開き、江戸城を拠点に。
当時は大坂城(豊臣家の居城)が天下でも名城として知られており、江戸城を天下に名だたる立派な城にする必要があったのです。

そこで考えたのが、江戸幕府の権威をよりしっかりさせるために全国の諸大名に命令して江戸城の改修を行わせることでした。

「週刊戦国年表」で取り上げられた1607年(慶長12年)の改修では、主に東国以北の諸大名に命じて天守台および石塁などを修築させました。

この時は、築城の名手として名高い藤堂高虎が設計を行い、関東諸大名は5手に分れて、80万石で石を寄せ、20万石で天守の石垣を築き、奥羽、信越の伊達政宗、上杉景勝、蒲生秀行、佐竹義宣、堀秀治、溝口秀勝、村上義明などは堀普請を行ったと記録に残っています。
江戸城改修の資金も、諸大名に負担させます。

「大名たちが余分なお金を持てば、戦をしようとして徳川幕府を脅かすかもしれない」と考えてのことでした。
 

その後の江戸城

江戸城は、この戦国年表で取り上げられた後も改修されています。

最盛期には、本丸・二ノ丸・三ノ丸を中心に、西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸の周囲16kmにおよぶ区画が本城で、現在の千代田区と港区・新宿区の境に一部が残る外堀と、駿河台を掘削して造った神田川とを総構えとする大城郭にまで発展しました。
城上にはなんと20基の櫓と、5重の天守を設けたそうです。

しかし、江戸時代はたびたび大火(大規模な火事)に見舞われることがありました。江戸の町だけでなく、江戸城も大火で被害を受けることもあったといいます。

また昭和の時代には、東京大空襲で大手門など一部が焼失。戦後に復元されています。
改修と修復を繰り返した江戸城。

現在は天皇家の方々がお住いのため、名古屋城などのように気軽に観光することはできませんが、大切に残されています。
もし家康が現代の皇居や東京の街並みを見たら、一体どんな感想を持つのか、聞いてみたいものです。
(葉月智世)
 
名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻
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2021年03月29日21時15分~抜粋

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