名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

武士のステータス「関白」に就くために必要なこと

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。12月21日の出陣は豊臣秀吉、加藤清正、陣笠隊の足軽・踊舞の3名でした。

標題の関白職。これは平安時代から続く、時の天皇を補佐する権力の象徴的な役職でした。日本史の授業で、平安時代に藤原家が代々摂政・関白に就いた「摂関政治」を習ったのではないでしょうか。
豊臣秀吉が関白職を甥の秀次に譲った逸話。そこには、少々複雑な豊臣家の跡取り問題があったようです。

いったい、戦国年表でどんな出来事が取り上げられたのでしょうか。

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今週の週刊戦国年表は?

12/21~12/28の期間に、戦国時代起こった出来事を取り上げる「週間戦国年表」。
今回の出来事は1591年12月27日に起こった、豊臣秀吉が甥の豊臣秀次に関白職を譲り、太閤となったことについて。

既に説明した通り、関白職は権力の象徴的な役職ですが、なんと武士で初めて関白職に就いたのが秀吉だったのです。でも、関白職は基本的に公家(貴族)がなるもの。いったいどうやって関白になったのか気になりますね。

秀吉は、公家であった近衛前久の猶子(仮親の権勢を借りるために猶子になりました)となり、関白に就任しました。
その関白職は、甥の秀次に譲ったものの、太閤になった秀吉が権力を握ったままだったので二重権力のような状態に。本当は秀吉だってもっと近しい身内に関白職を譲りたいと思っていたようですが。

この1591年に後継者に指名していた息子の鶴丸が3歳で病死。頼りにしていた弟の秀長まで病死してしまう不運に見舞われました。
そこで、甥の秀次を養子にしたうえで、関白職を譲ることにしたのでした。

これで一件落着となればよかったのですが、予想外の事態が起こったことで悲劇に繋がっていきます。
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豊臣家の跡取り問題

既に述べた通り、甥の秀次に関白職を譲って一件落着と思われたところに、なんと側室の淀君が男児を出産。この時に生まれたのが秀頼です。

「養子にした秀次に後を継がせるより、実の息子の秀頼に継がせたい」と考えるのが親の性(さが)、おそらく秀吉も同じように考えたのではないでしょうか。

こうなると、秀次が邪魔者になってしまいます。秀次も、秀頼が生まれたことで「いずれ関白職を追われてしまうのではないか?」と徐々に不安定になります。
次第に秀吉と秀次の間もぎくしゃくし、対立していった末どうなったのでしょう?

最後は「秀次に謀反の意あり」として、高野山に籠っていた秀次に切腹を命じることに。秀次は享年28歳でした。

秀次が切腹した後、首は福島正則によって伏見に持ち帰られましたが、秀吉はそれだけでは納得しません。
秀次の身内である妻子までまとめて処刑し、さすがに残酷だと民衆から声が上がったとも言われています。後味の悪い結末でした。
 
しかし、秀頼が生まれた時点で秀吉はもう老年期にはいっています。跡取りの秀頼が幼いことを心配しながら死去した秀吉。6歳で家督を継いだ秀頼の末路は、歴史に残っている通りです。
 

豊臣家の滅亡

そして時は流れ、関ケ原の戦い後に江戸幕府をひらいた徳川家康。
この頃まだ豊臣家は大坂を支配しています。家康は秀頼に孫の千姫を嫁がせていたものの、目の上のたんこぶのような状態でした。

徳川方が難癖をつけて勃発した大坂冬の陣。ちょうど冬の陣の和議が結ばれたのも、戦国年表のなかで少し話題に出ていましたが、1614年12月19日と言われています。
家康方は、攻撃しやすいように難攻不落だった大坂城の堀を埋め立ててしまう暴挙に出ます。

そして翌年夏、大坂夏の陣で豊臣家はご存じの通り滅びます。
苦心して秀頼を跡取りにしたのに、豊臣家滅亡とともに潰えてしまったのでした。

いつの時代も、実の子を可愛いと思うのが親心。
しかし、この豊臣家の顛末が決して珍しいというわけでもありません。戦国時代に跡目争いをした例はたくさんあります。

あの織田信長だって、家督争いで弟の信之を殺していますし、上杉謙信は子供がなかったために死去した後、お家騒動がおこっています。

いったい、秀吉はあの世から豊臣家滅亡の経緯をどんな思いで見ていたのでしょうか。秀頼が治める天下も見てみたかったものです。
(葉月智世)
 
名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻
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2020年12月21日21時13分~抜粋

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