名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

なぜ、浜松城は「出世城」と呼ばれたのか

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。12月14日の出陣は織田信長徳川家康、陣笠隊の足軽・惣平の3名でした。

標題の「出世城」。これは関ケ原の戦い以後、歴代の城主たちが江戸幕府の重役となったことからこう呼ばれるようになりました。もちろん、徳川家康にとっても生涯を通じて重要な城でした。

浜松と言えば交通の重要な拠点なだけでなく、肥沃な大地と海産物も獲れる豊かな地。家康以前は、今川氏なども治めていた地です。
いったい、戦国年表でどんな出来事が取り上げられたのでしょうか。

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今週の週刊戦国年表は?

12月14日から20日の期間に、戦国時代起こった出来事を取り上げる「週間戦国年表」。

今回の出来事は1568年12月に起こった、徳川家康の曳馬城(ひくまじょう)占拠事件。
曳馬城ってどこにあるの??と思われたかもしれません。現在の浜松城です。
当時は曳馬城と呼ばれており、のちに家康が曳馬城を取り込み浜松城として拡張しています。

もともと、浜松の地は今川氏の配下にありました。
今川氏と言えば、桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られた今川義元が有名ですね。家康はこどもの頃、今川氏の人質扱いでした。

その後、家康が成人した際も義元から一字「元」を戴き元信と名乗ります(その後、元康と改名)。今川氏は、義元が討ち取られたのち、弱体化していきました。
 
この占拠事件は、事前に信長と家康が綿密に打ち合わせていたと言われています。信長にとっても、同盟を結んでいる家康には東の武田氏を抑えるために頑張ってもらわないと困ります。そういった意味でも戦の最前線・要衝という扱いでした。
 

家康が治めるようになった後は?

既に述べた通り、家康は曳馬城を取り込み浜松城として拡張します。
「曳馬」という名前は「馬を曳く」すなわち「敗北を意味する縁起が良くない名前だ」という理由で浜松城と改められました。

家康にとってはとても思い入れの深い城ですが、決していい意味だけではありませんでした。家康が大ピンチに陥った戦いの舞台でもあったのです。

1573年、武田信玄が上洛するために、この浜松を通過するという知らせが入ります。信玄は、浜松を攻めるそぶりをみせながらも無視する行動をとって家康を挑発。信長からの援軍も少なく、当初は籠城するつもりでした。

しかしそこは三河武士。家臣たちに「籠城して、武田をやすやすと通過するのを見過ごすのか」と言われて奮起したとも伝わりますが、撃って出た徳川軍は大敗。

家康も命からがら逃げ帰り、家康の人生の中でも最大級のピンチとなった「三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)」となったのでした。
その後も家康はピンチが続きますが、信玄が病死し武田軍が撤退したところから攻勢に転じていきました。

信玄がもし長生きしていたら…家康はどうなったのかわかりませんが、少なくとも信玄の死が家康にとっては幸運となったのでした。
 

その後の浜松城

1586年、家康は浜松から駿府に本拠を移しました。浜松城に居たのは29歳から45歳までの17年。関ケ原の戦い後は、標題の通り譜代大名と呼ばれる大名たちが城主となり、幕府の重要ポストに就く城主が多かったために「出世城」と呼ばれたのでした。

どんな人物が城主にいたのかと言うと、例えば、水野忠邦。
忠邦は老中として「天保の改革」を行ったことで有名です。おそらく日本史の授業で聴いた記憶のある方も多いのではないでしょうか?

もちろん、家康にとっても出世城だったといえます。人生最大級のピンチを味わった記憶と同時に、重要な居城であったことは間違いないのです。

天守閣は明治維新後に廃城となって取り壊されますが、1958年に鉄筋コンクリート造りの城として再建されました。2017年には続日本100名城(148番)にも選定されています。
名古屋からもそう遠くない地、浜松。家康の若かりし頃を想像しながら日帰りで行ってみるのもいいかもしれませんね。
(葉月智世)
 
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2020年12月14日21時12分~抜粋

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