名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

真田正幸・幸村の苦労を、前田利家と前田慶次が同情できる理由

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。12月7日の出陣は前田利家前田慶次、陣笠隊の足軽・太助の3名でした。

武士が浪人したり所領(しょりょう)を取り上げられたりすれば、収入がなくなってしまいます。たちまち貧乏になり、生活に困りました。
現代のわたしたちだって収入がなくなると困ります。いったい、戦国年表でどんな出来事が取り上げられたのでしょうか。

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今週の戦国年表は?

12/7~12/13の期間に、戦国時代起こった出来事を取り上げる「週間戦国年表」。
今回の出来事は1600年12月13日に起こった、真田昌幸・幸村親子の蟄居(ちっきょ)事件。

「蟄居」と言われてもわからない方が多いかもしれません。
武士または公家に対して科せられた刑罰のひとつで、閉門の上、自宅の一室に謹慎させること。要は謹慎処分・幽閉のことです。でも、なぜこんな事件が起こったのでしょうか?

関ケ原の戦いで真田昌幸・幸村親子は石田三成の西軍に味方します。結果は歴史に残っている通り、東軍の勝利に終わりました。

東軍の勝者、徳川家康は西軍に与した武将たちを次々と処分していきます。
例えば、石田三成や安国寺恵瓊(あんこくじえけい)は捕らえられ、京都の六条河原で斬首の後さらし首に。毛利氏や上杉氏は大幅な減封。真田親子も、一度は領地没収と死罪が申し渡されました。

しかし、真田信之(真田昌幸の長男。幸村の兄)が東軍に味方していたこと。信之の舅である本多忠勝は、徳川四天王と呼ばれる側近であるだけでなく、縁組で家康とは親戚です。この二人が助命嘆願した結果、当初は高野山(のちに九度山)でとなったのです。
 

蟄居した後の生活は?

蟄居となれば、収入が途絶えてしまうので生活が困窮してしまいます。
真田親子が、いったいどうやって生活していたのか気になるところです。
質素な生活を余儀なくされますが、内職や、実家である信之からの仕送りでなんとか暮らしていたといわれています。

父の昌幸は上田に戻りたいと願いながらも叶わず、蟄居を命じられて11年目に病死。
幸村は、14年目に徳川と豊臣の対立が激化したのち、豊臣方に味方するため九度山を脱出、大坂城に入りました。

その後の大坂冬の陣・夏の陣では武功を轟かせるも討死。一時は家康の陣に迫ったとも言われています。

家康も驚かせた武勇は後々まで言い伝えられ、現代ではゲームなどでイケメン武将に描かれ、女性に人気となっていますね。
数年前の大河ドラマ『真田丸』でも堺雅人さんによってカッコよく演じられていました。
 

利家や慶次も経験した苦労

どうやら、前田利家前田慶次にも真田親子の気持ちがわかるようで…。
いったいどんな経験をしたのでしょうか。

まずは、前田利家の場合。
利家は若かった頃、織田信長のお気に入りだった茶坊主の拾阿弥(じゅうあみ)をカッとなって惨殺してしまいます。そのまま出奔するも、柴田勝家や森可成が執り成してくれたおかげで、謹慎処分になりました。

しかし熱田神宮の神官の家で、庇護という名の幽閉に。
「何をしでかすかわからないから」と、監視されていたようです。
信長の許しがない中で桶狭間の戦いに参戦しますが、許されるのはもう少し先のことになります。信長になかなか許してもらえなかったのですね。

一方の前田慶次も、前田家から出奔したのち上杉家に仕えるまでは浪人生活を送りました。浪人時代は様々な人に助けられて生活していたと言われています。

利家と慶次は、叔父と甥。どちらも「かぶき者」だったと言われていますが、これは前田家の血筋なのかもしれませんね。

利家は若いころから「かぶき者」だったエピソードがいくつも残っていますが、慶次に関してはあまり資料がなく、逸話や物語でのイメージから「かぶき者」と言われていますので実は違うイメージかもしれません。
もしタイムマシンがあれば、こっそり二人の姿を覗いてみたいものです。
(葉月智世)
 
名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻
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2020年12月07日21時14分~抜粋

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