名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻

「令和」発表の日、元号を変えた武将・織田信長が語る

400年前より現代に蘇りし戦国武将の集団・名古屋おもてなし武将隊(R)が、ラジオ界の天下一を目指す番組『戦国音絵巻』。
4/1の”出陣”は、織田信長、前田利家、陣笠隊の足軽・太助です。

4月1日のこの日、新元号が「令和」になることが発表されました。実は織田信長も昔、改元に関わったことがあるのです。

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信長包囲網

戦国時代に起こった一週間の出来事を振り返る「週間戦国年表」のコーナー。
その出来事について“本人”が当時を思い出しながら話をするという、歴史の先生もビックリの企画です。

今回は4月1日~7日(以降、日付は旧暦)の間に起こった事で、「新元号」にも繋がる事件を紹介しました。それは…。

「1573年4月2日 織田信長、洛外に火を放つ」

洛外とは、京都中心地(洛中)の周辺のこと。つまり、朝廷や幕府の近辺地域を焼き討ちしたのです。
どうしてそのようなことになったのでしょうか。流れをかいつまんで書き出します。

1565年。室町幕府第13代将軍・足利義輝が暗殺されます。その弟・足利義昭は逃げ延び、各地を転々としながら、将軍の座を奪おうと画策します。

1568年。信長の警護により足利義昭が京都に入り(上洛)、めでたく朝廷から征夷大将軍に任命され、室町幕府第15代将軍となります。信長のおかげで義昭は将軍になれたので、当初は2人の関係は良好でした。

しかしやがて両者の仲はギクシャクし、義昭は各地の大名にこっそりと、信長討伐の協力を要請するようになりました。いわゆる「信長包囲網」です。これで信長はかなり苦しめられました。

1573年。ついに義昭自身も挙兵し軍事行動に出ます。信長は講和を求めましたが義昭は拒否。その結果、洛外へ火が放たれたのです。
 

ムリヤリ講和させる

446年前の当時の様子を、信長が思い出しながら語ります。

信長「儂(わし)のおかげで将軍になれた足利義昭が、結局は儂の力が邪魔になって、謀叛を起こそうとしていたことが発覚。
故に、儂は京都洛外を攻め、『どうする?義昭。降伏か講和か選べ。講和の方がお前も条件がええんじゃないか?』と」

利家「なるほど。講和以外の選択肢がない状態にした、と」

この時、数千棟の建物が焼き払われたとも言われています。こんなことをされては、さすがに義昭もビビったことでしょう。
そして、この出来事が大きく歴史を動かします。

信長「何が言いたいかというとだな。実はこれがきっかけで元号が変わった!」
 

信長の野望

当時は「元亀(げんき)」という元号でした。1573年は元亀4年です。それがこの年の7月に「天正(てんしょう)」という元号に変わったのです。

そもそも信長は、この「元亀」という元号が当初から気に入っていませんでした。
“元に帰る”と書いても「げんき」と読めることから、「時代が戻る」という意味を思わせてしまうこと。
また、「亀のようにノロノロ進む」というイメージになってしまうこと。だから、良くない元号であると信長は考えていたのです。

それに実際、元亀は戦乱ばかりで良くないことが多かった時代でした。
現在は皇位継承と同時に元号が変わりますが、江戸時代までは、戦乱や災害を理由に改元することがしょっちゅう。
「元亀は変えるべき」と信長が思うのも当然です。

信長「世の中を一新するために、元号を変える必要があるんではないかと。あまり大した役職でもない儂と、時の帝・正親町(おおぎまち)天皇と、将軍・足利義昭の3人でえい話をしたんじゃ」

肩書きはなくとも、朝廷と幕府に対して意見が言える信長は、実に強大な権力者だったのですね。
 

室町幕府の終焉

信長「元号を変えた方がいいと言ったのは儂。変えない方がいいと言ったのは義昭。その理由は『銭がかかる』。
今でもカレンダーなるものがあるじゃろ?元号を変えるだけで、それに応じて暦など変えなければならないものが多いというわけで、銭がかかると」

当時の将軍家や公家は資金が潤沢ではありませんでした。余計な出費はできなかったのです。
それに対して信長は「銭ならウチが出す」と言ったんだとか。しかしそれを受け入れてしまうと、将軍の権威が失われてしまうため、義昭はうやむやにしていたんだそう。

そんな経緯があったのち、洛外に火を放たれ、やむなく信長の講和を受け入れた義昭。
講和の条件として「足利義昭将軍は京都からお出になって頂きます」というものがあり、事実上の京都追放となったのでした。

「なぜ信長は最初から義昭を負かそうとせず、講和(引き分け)を迫ったのか?」という疑問もあるでしょう。
一応、義昭の方が位が高く偉いので、建前として信長は低姿勢になり和睦を申し出たという側面があるようです。
 

今も昔も有識者会議

義昭が去った後は、信長の思い通り改元の話が進み、元亀4年(1573年)7月28日、天正元年へと変わりました。
では、この「天正」という言葉はどうやって決められ、どんな意味があるのでしょう?

信長「これは、故事にならったものでござって、実は現代の決め方とほぼ一緒。こたびの『令和』は万葉集から取ったものを使っておるんだが、他の元号と同じく儂らも中国の古典から取った言葉を使っておる。
いわゆる“有識者会議”というものがござって、そこから候補をポンポンと出してもらい、時の権力者が『これにしようではないか』と選んでいた」

「天正」も信長が推して、選ばれたそうです。昔も今も似たような決め方だったんですね。

ちなみに「天正」の由来は、以下の2つの書物から。
『文選(もんぜん)』の「~民以食為天、正其末者端其本~」と、『老子』の「清静者為天下正」という部分。どちらにも「天・正」の文字が入っています。

ざっくりと言えば「上に立つ者は、民があってこそ。民は食物を天と仰ぐ。物事の先々を正そうとするなら、その根本を整えるべき」「心清く静かにすれば、天下の模範となる」という意味があるようです。

信長「要するに、“天を正す”と書いて天正!」

天下統一を目指していた信長に、ふさわしい元号と言えましょう。
(岡戸孝宏)
 
名古屋おもてなし武将隊® 戦国音絵巻
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2019年04月01日21時14分~抜粋

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