テレビの世界で一番大事なものは?
30年以上前、萩本欽一さんの塾に入るためのオーディションを岡田さんが受けた時の話。
見事、その決勝に勝ち残った岡田さん。
最終段階の絞り込みで、萩本さんは受講者たちに紙と鉛筆を手渡します。
その紙にはこう書かれていました。
『テレビの世界で一番大事だと思うことを順番をつけて書いて下さい。努力、運、才能、正解の人には、あとで電話が行きます』
神谷と恵須川は口を揃えて「運」と答えます。
萩本さんの答えも「運」だったそうです。
当時、21歳だった岡田さんは「才能」と答え、あえなく不合格だったとのこと。
後日、別の席で萩本さんに会った岡田さんは、その順番になる理由や不合格の理由を尋ね、30分くらいサシで教えてもらったそうです。
不合格には「グイグイ来る人じゃない人を求めていた」という他の事情もあったとか。
岡田「人生で答え合わせができることは少ない」
神谷「至福の時間だね、それは」
また、指示された簡単なセリフ「お母さん」「お金ください」を言うだけでジャッジされる面接もあったとか。
岡田「合格の基準がわからない…」
後日談によると、そこでは言い方と動作の微妙なタイミングがピッタリ合って笑いにつながるかどうかを見ていたそうです。
岡田さんが決勝に残った理由としては「声が良かった」こと。
スタッフの方が萩本さんに説明するのを聞いて、自信を持ったとか。
チャップリンの影響でお笑いの道へ
話題は岡田さんの生い立ちに移ります。
東京都北区出身で埼玉育ちの岡田さん。
人見知り、赤面症で極度のあがり症だったと振り返ります。国語の教科書を読むだけで赤くなっていたそうです。
「でもお笑いを目指すわけじゃないですか?」
すかさず突っ込む神谷明。
成績も普通で、自分でも普通の道を目指すと思っていたそう。
ドリフターズしか見ていなかったそうですが、勧められたチャールズ・チャップリン『黄金狂時代』を観てゲラゲラ。
その影響でお笑いに目覚めます。
岡田「好きな女の子が笑ってくれるのが嬉しかった」
面白いことをすれば笑ってくれるという快感に取り憑かれたそうです。
”客いじり”が芸名の由来に!
その後、小さなスタジオがあり、体育祭もハンディカメラで撮っていたという当時では珍しい商業高校に入学します。
同級生にも恵まれ、後にコンビを組んでホリプロに入ることになる相方とも出会います。
放送部では毎日新入生をいじり、その結果"客いじり"が上手になった岡田さん。
芸名「イジリー岡田」の由来になったのだそうです。
そして、高校3年生の時にはなんと6回もテレビ番組に出演したとのこと。
当時、『欽ドン!(欽ちゃんのドンとやってみよう!)』(フジテレビ系列)などで視聴率100%と言われていた萩本欽一さん。
ピンチヒッターとして素人番組にも出演し、憧れの萩本さんに初対面。
そこで合格し手応えをつかみます。
岡田「表(舞台)に行けるんじゃないか、と」
神谷「大きく転換しましたね」
高校卒業後はテレビの裏方を目指して専門学校に入学。
カメラアシスタントを務めたものの、雪の日の中継のバイトで重量のあるケーブルを肩に担ぐ経験をし、とても自分はできないな…と諦めたそう。
その後、紆余曲折を経てお笑い劇団のオーディションを受け、萩本さんのオーディションを受けるに至ったそうです。
(nachtm)
セットリスト:
子門真人、コロムビアゆりかご会「勇者ライディーン」