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5/28はあのマイルス・デイヴィスの黄金時代を支えたジャズピアニスト、レッド・ガーランド(Red Garland)を特集しました。
マイルス・ディヴィス黄金時代を支えたピアニストはプロボクサーだった!
プロボクサー出身のピアニスト?
レッド・ガーランドは1923年アメリカ・テキサス州ダラス生まれ。
本名はWilliam McKinley Garland。アーティスト名の「レッド」は、髪の毛を赤く染めたことから付けられました。
少年時代からクラリネットやアルトサックスといった楽器演奏に加え、ボクシングを始めます。
軍隊を除隊後はプロボクサーとして活躍した時期もあった、異色な経歴の持つ主です。
第2次世界大戦後の1940年後半はエディ・ヴィンソンのツアーにジョン・コルトレーンと一緒に参加します。
当時はアーマッド・ジャマル、ウォルター・ビショップの演奏に影響を受けていたそうです。
やがてガーランドは、コールマン・ホーキンスやチャーリー・パーカー、レスター・ヤングなど様々なミュージシャンと共演を重ねました。
ジャズ史上最高のグループに参加
そして1955年にはガーランドとは切っても切れない人物、マイルス・デイヴィスのバンドに加入します。
メンバーはマイルス(トランペット)、ジョン・コルトレーン(テナー・サックス)、ポール・チェンバース(ベース)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ドラムス)、そしてガーランド。
このバンドはジャズ史上最高のグループと称賛され、この時期のマイルス自身も「黄金時代」と言われています。
ピアニストとして、ガーランドがこのバンドで活躍したのは、わずか3年ほどです。しかしこの時のバンドは「All American Rhythm Section」と呼ばれ、その活躍が彼の名を広めることになりました。
「ピアノがリズム楽器?」と疑問に思われる方も多いと思いますが、実はジャズにおける「リズムセクション」とはピアノ、ベース、ドラムの3楽器を指すのです。
マイルス・デイヴィスがジャズ界の巨星となったのは、音数を極力少なくした音楽を目指し、完成したことにあります。
このスタイルは、アーマッド・ジャマルのピアノに影響されてはいますが、それを完成させたのは、マイルスとガーランドに他ならないのです。
ガーランドが「ジャズ・ジャイアント」のひとりに数えられる理由がここにあります。
誤解を生んだ?「ガーランド節」
ホテルのラウンジなどで行われるパーティーや打ち合わせなどを邪魔しない、心地良いピアノの弾き方を、あまり良くない意味で「カクテル・ピアノ」と呼びます。
ガーランドの演奏にはゆったりしすぎて、この蔑称に近い表現が当てはまるものがたまにありました。
マイルスはガーランドに対し「アーマッド・ジャマルのようにピアノを弾け!」と言ったとか。
マイルスが要求したのも、おそらくこのスタイルを嫌ってのことだったと推測されます。
しかし彼が関わった多くのトリオ作では、白人ピアノとは違うブルース感覚がにじみ出る演奏を聴かせています。
その奏法の特徴は、左手のリズムのタイミングとブロックコードです。
前者は半歩遅れたようなタイミングが特徴で、ブルースからの影響ともエロール・ガーナーの影響とも言われるところ。
後者のブロックコードは主にアドリブで発揮されるもので、左手を不協和音気味に進行させていきます。ここからいきなりシングルトーン(単音)に移行していくスタイルで、ファンの間では「ガーランド節」とも呼ばれています。
マイルスがコードにとらわれないモード手法に移行すると、バンドのピアノはビル・エヴァンス、そしてウィントン・ケリーへと変わっていきます。
マイルスと別れてからのガーランドは数年後(60年代前半)にいったん引退しますが、70年代前半にジャズ界へ復帰。1984年に亡くなるまで第一線で活躍しました。
今回はマイルス・デイヴィスを支えたピアニスト、レッド・ガーランドをご紹介しました。
M1 レッド・ガーランド『Groovy』から「C Jam Blues」
M2 マイルス・ディヴィス『Round About Midnight』から「Bye Bye Blackbird」
M3 レッド・ガーランド『Misty Red』から「This Can't Be Love」
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