板東サンデー

板東英二が、イチローとの親密な関係を語ります

34年ぶりにCBCラジオで板東英二がメインパーソナリティを務めます『板東サンデー』。
5/6の放送では、あのイチロー選手について板東が思い出を語りました。

イチロー選手は先日、シアトル・マリナーズと「会長付特別補佐」の契約を結び、現役引退はしないものの、選手としては今季の残り試合は出場しないことが発表されています。

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最初は不遇だったイチロー

44歳になってもなお、自分の身体を痛め付けるくらい練習して、結果が良くてもニコッとはするもののハシャぐことはしないと、板東はイチロー選手を評します。確かに、ストイックというイメージですね。

「彼はツラい思いを表に出さないでしょ?彼は不運な選手なんです。だって最初は、指導者に恵まれなかったんですから」と板東。

入団当時のオリックス・ブルーウェーブ(現バファローズ)の監督は、イチローの振り子打法を認めず、二軍に落としていたと言われています。

板東「まず、野球よりも人として合わなかったんでしょうね」

ただこれは、実は高卒1、2年目からそこそこ起用しており、打法を認めなかったのは監督じゃなく打撃コーチだったとか、二軍に落としたのは体力を付けさせるためだったとも言われており、当のイチロー選手本人も監督と仲が悪かったわけではなく、体力作りをさせてくれて感謝していると後に述べています。

いずれにせよ、一部の指導者に蔑ろにされていたというのはあったようです。

その後、1994年から新監督を迎えます。その仰木彬監督は「振り子打法、大いに結構!」という、個性重視の人でした。そもそもイチローという登録名が仰木監督考案ですから。

板東「これね、好き嫌いというのはあるんですよ。僕なんかね、中日に入った時から、キャンプでみんな俺を嫌ってね。西沢という人だけが『板東、板東』と呼んで、何かと思えば『麻雀のメンバーが足りないから』って。どんな戦力や!っていうね」

(ここでいう西沢とはおそらく、解説者かコーチ・監督時代の西沢道夫氏だと思われます)

グラウンドに競輪場があった

そうして仰木監督に見出だされてイチロー選手は伸びていくことになります。ところが…。

板東「当時、お客さんも入ってないような所でしたから。球場が競輪場ですもん。球場内に木製のバンク(競争路)があったんですよ。で、野球の試合がある時は取り外されるんですよ」

オリックス・ブルーウェーブの前身、阪急ブレーブスの本拠地として1937年に造られた「阪急西宮球場」。ここは1949年から「西宮競輪場」としても機能するようになりました。
これは、当時の阪急ブレーブスが弱小球団で集客が低迷していたため、阪急の総帥の発案で実現したのだそうです。その狙いは見事に当たり、プロ野球公式戦よりも大盛況だったといいます。

木製のパネルを張り合わせた周長300mのバンクを特設し、競輪を開催していました。その後改修されアスファルト製になり、距離も長くなります。

1988年オフ、阪急がオリックスに球団譲渡。1991年から本拠地をグリーンスタジアム神戸(現ほっともっとフィールド神戸)に移転。その後「阪急西宮スタジアム」に改称してプロ野球も何度か開催されますが、1996年を最後に公式戦での使用終了となります。
そして2002年、競輪開催も廃止され、解体となっていくのでした。

イチロー選手在籍時はすでに本拠地がグリーンスタジアム神戸でしたが、シーズン200安打に迫ろうかという状況ではなく、ブレイク寸前で、まだまだ客足は鈍い時期。そもそも阪神タイガースという人気球団の影に隠れてしまいがちです。
今でこそ人気のパ・リーグですが、当時は集客が難しかったのです。

イチローとの馴れ初め

そんな中、名古屋の仕事に恵まれず関西に流れ、そこそこ売れるようになっていった板東はイチロー選手と邂逅し、親交を深めるようになります。

1992年、運行開始当初の新幹線「のぞみ」は、東京からの始発は名古屋を通過し、京都、大阪に停まっていました。いわゆる“名古屋飛ばし”です。

板東「僕はせっかちやから朝一番に乗って。そうすると、乗っているのがイチローだけ。2人だけしかいないんです。それで仲良くなっていったんです」

どうしてイチロー選手だけが始発に乗っていたのかは不明ですが、とにかく“通勤仲間”だったということですね。
名古屋に縁の深い2人が名古屋飛ばしの新幹線に乗るというのも因縁めいていますが。

周知の通りイチロー選手は中日ファンで、当然板東の存在も知っています。近藤貞雄監督で優勝した1982年にリリースされた「燃えよドラゴンズ!'82」は板東が歌っていました。小学生だったイチロー少年も口ずさんでいたことでしょう。

イチロー選手「頼むから坂東さん、オリックスのことも(メディアで)言って、球場にも来てくださいよ」

そう言われて板東は、始球式に出たそうです。そして、一塁に牽制球を投げてそのままマウンドを降りたんだとか。
牽制球を投げるボケをかましてから正式に投げるというパターンは何度もありますが、牽制球だけで終わるというのは前代未聞。それを見たイチロー選手は大笑いしたそうですよ。

イジられる程の仲

その後、2001年にマリナーズの一員となり、メジャーリーガーとなったイチロー選手。板東は仕事でオールスターゲームを観に行ったそうです。
いくつものブースで、出場選手が記者団に囲まれて取材を受けています。もちろんイチロー選手もしゃべっています。

「僕ね、英語は達者なんですよ。アウト、セーフ、バット、グローブとかね」

…とうそぶきますが実際は、周囲は選手もメディアも外国人ばかりで、後ろの方でただただ様子を見ていただけの板東。すると、イチロー選手が板東の姿を見つけたのです。

板東「パッと立って、僕の方にまっすぐ歩いて来たんです。したらカメラマンから照明から一斉に僕に向いて。イチローが記者団の質問を断って来たぐらいだから『誰やろ!?』ってことで、みんながニュースとして扱おうとしたんでしょうね。僕も緊張して、どうしようと思って」

そしてイチロー選手が話しかけたそうです。
「何しに来たの?」

「いや、仕事で…」
ゴニョゴニョして答える板東。

「何言ってんの、遊びに来てるんでしょ?」
そんな感じの軽口で返し、記者席に戻っていくイチロー選手。

当然、記者団からは「誰だ?」という質問が出ますね。そこでイチロー選手、こう答えたそうです。
「野球崩れのコメディアン」だと。

「そしたらみんな『何やそれは(苦笑)』となって、一斉にライトが消されて、僕は寂しーい気持ちになって。今でも覚えてますわ」と板東は振り返ります。

先輩後輩の縦の繋がりに厳しい体育会系の中、そんなフランクなやり取りができるのは、それだけ気が置けない仲だということなのです。

人脈は金脈?

こんなに仲が良いのなら、ある期待がちょっと持てますよね。親友の高木守道さんを初回のゲストに迎えたぐらいですから。
番組アシスタントの加藤由香アナウンサーが“おねだり”します。

「板東さん、そのうちいつか、この番組にもイチロー選手を呼んでくださいよ」

「よーし!彼が『来る』って自分で申し出たらね。俺からは、よう言わんわ!ムチャ言うたらいかんよ!」

さすがに簡単にはいきませんか。でも昔、板東の番組に、親交の深かったあの高倉健さんがゲスト出演したという実績があったはず。

板東「高倉健さんも、勝手に来たんですよ。『来てください』とは言えないじゃないですか」

加藤アナ「勝手に来てくれるように仕向けてくださいよ」

板東「えー、(同じよしもとクリエイティブ・エージェンシー所属の)森繁和監督は大丈夫やし、(高校・中日の後輩の)川上憲伸はこの辺をウロウロしてるし、後は誰がいるかな(汗)」

今後、コネをどのくらい利用してどんなゲストが来てくれるのか、板東の手腕に注目です。
(岡戸孝宏)

※画像:加藤メカ(@katomecha)
板東サンデー
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2018年05月06日13時41分~抜粋

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