多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N

GHQに唯一屈しなかった男、白洲次郎ってどんな人?

日本には偉人と呼ばれる優れた人物がたくさんいます。『多田しげおの気分爽快!!~朝からP•O•N』(CBCラジオ)、「日本偉人伝」のコーナーでは、そんな歴史上の人物の生涯を、CBC論説室の後藤克幸特別解説委員が毎週ひとり紹介しています。

3月12日の放送では、「白洲(しらす)次郎」を取り上げました。
終戦直後にアメリカとの交渉役を任され、日本を裏側から支えた人です。

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イギリス留学で学んだこと

白洲次郎は明治35年(1902年)、兵庫県の芦屋市で生まれました。
父は貿易会社を経営する実業家でした。

大正10年、19歳の時にイギリスの名門ケンブリッジ大学へ入学し、寄宿舎で生活。
正統派のキングズ・イングリッシュと、イギリス紳士の流儀をこの寄宿舎で徹底的に学んだとされています。

ここまでは順風満帆でしたが、昭和3年(1928年)26歳の時に父の会社が倒産してしまい、急遽帰国。

英語力を生かし、英字新聞の記者をしたり貿易会社で働いたりしましたが、以前のような環境ではありませんでした。

吉田茂との出会い

27歳で伯爵家の令嬢と結婚。これが縁で、当時外務省の事務方で外交官をしていた後の内閣総理大臣、吉田茂と知り合いになります。

このことが、白洲次郎の人生を変えていくことになります。

昭和20年(1945年)に終戦を迎え、吉田茂は外務大臣に就任。
この時、白洲次郎を高く評価していた吉田茂は、日本を占領する「GHQ」との交渉を任せます。

英語力を活かし、日本とアメリカの橋渡しをする役として、白洲次郎は吉田茂から「終戦連絡中央事務局参与」の職を与えられました。

「葬式無用、戒名不要」

特に「日本国憲法」を成立させるための非常に微妙かつ重要なやり取りがあり、日本側は厳しい交渉を強いられました。

しかし白洲次郎はこれを切り抜け、昭和22年5月3日の「日本国憲法」の施行にまでこぎつけたのです。

昭和26年(1951年)、日本が国際社会へ復帰するための重要な会議である「サンフランシスコ講和会議」で、白洲次郎は首席顧問として吉田茂総理大臣と共に参加。

その後、日本は独立を果たし経済発展の時代を迎えますが、白洲次郎は政界を引退し、民間企業の要職を歴任。

民間経済界で活躍した後の昭和60年(1985年)、「葬式無用、戒名不要」というユニークな遺言を遺し83歳で亡くなりました。

毅然とした態度でGHQと対峙

白洲次郎が偉人たる理由について、「戦後の混乱している中、彼は肝っ玉が据わった人だったと思う」と語る後藤委員。

白洲次郎は、イギリスで学んだ流暢な正統派英語と民主主義の基本原則を武器としてGHQと対峙し、毅然とした態度で交渉に臨みました。

日本が戦後、国際社会に復帰していくための礎を築いたことが彼の大きな功績です。

「日本は戦争に負けたけれど、日本人は奴隷になったわけではない」

これは白洲次郎の口癖。あくまでもイギリス流民主主義の基本原則を貫こうとしていました。

戦後の日本のあり方を示した

多くの官僚がGHQに恐れをなし、顔色ばかりを伺っていましたが、白洲次郎だけは違いました。

サンフランシスコ講和条約の調印式で、事務方が用意した総理大臣の英語のスピーチを見て、「講和条約は、戦勝国と日本が対等な立場で結ぶ平和条約。晴れの舞台で日本の総理大臣が相手国の言葉でスピーチするのはおかしい」と一喝。

スピーチ原稿をすべて日本語に書き直させたという逸話も残っています。

白洲次郎は肝っ玉の据わった、そして日本人としての誇りを失わない、戦後の日本のあり方を示した人でした。
(minto)
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2024年03月11日07時40分~抜粋

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