多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N

近代国家の礎を作った薩摩藩主・島津斉彬が現代に残した功績

日本には偉人と呼ばれる優れた人物がたくさんいます。『多田しげおの気分爽快!!~朝からP•O•N』(CBCラジオ)、「日本偉人伝」のコーナーでは、そんな歴史上の人物の生涯を、CBC論説室の後藤克幸特別解説委員が毎週ひとり紹介しています。

2月26日の放送では、島津斉彬(しまづ なりあきら)を取り上げました。
歴史の節目節目で必ず名前が上がる、薩摩藩のお殿様の中で最も有名な人です。

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ジョン万次郎との出会い

江戸末期の1809年、薩摩藩主・島津斉興(なりおき)の長男として江戸の薩摩藩屋敷で生まれた島津斉彬は、幼い頃から和歌や漢文、西洋の文献に親しんで育ちました。

地元に「天文館」を建てるなど、西洋の文明と文化について熱心に研究していた曾祖父の島津重豪(しげひで)から、斉彬は西洋文化を教育されていました。

このことが、斉彬が大人になってからの業績に影響を及ぼしています。

42歳で薩摩藩の藩主となった斉彬。アメリカから帰国したジョン万次郎と面会した際には、彼が話す内容に非常に熱心に耳を傾けていたそうです。

後藤「『これは重要な情報だ』と、すでに気付いていた」

この出会いが、その後の斉彬の人生に大きな影響を与えたのです。

西洋式の工業団地を建設

最も知りたいアメリカの情報を語ってくれる人であったジョン万次郎を、斉彬は厚くもてなしました。

斉彬はジョン万次郎に薩摩藩の中で造船技術や航海技術、英語を指導する役を与え、のちに江戸に招き「旗本」としました。

斉彬が44歳の時、ペリーが黒船で来航。

「欧米列強がアジア進出に熱心である」ことに危機感を抱いた斉彬は、薩摩藩の中に西洋の科学技術を導入した溶鉱炉を建てるなど、いろいろな工場を建設し始めます。

1857年48歳の時には、製鉄や造船、蒸気機関、紡績、ガラス、印刷など多種多様な西洋式の工場を建てて、この工業団地に「集成館」と名付けました。

多くの業績を残した斉彬は、1858年に49歳で亡くなりました。原因はコレラだと伝えられています。

欧米と伍する国力

島津斉彬が偉人たる理由は、「西洋文明を積極的に取り入れたこと」にあります。

江戸末期に日本を取り巻く国際情勢に高い関心を抱き、自らも研究をしていた斉彬。

隣国の「清」がアヘン戦争で破れたという情報を聞きつけ、「欧米の列強がアジアに進出してくる」という危機感を持っていたといいます。

列強の侵略から国を守るためには、「欧米と伍する国力をつける必要がある」と考えていました。

日本近代化の実現を図るために欧米の優れた技術や文化を学び、自分の領内に西洋の技術を取り入れた「工業団地」を具体的に作り上げたことが、斉彬の大きな功績です。

近代国家のモデルを見せた偉人

後藤「欧米の進んだ技術を早く取り入れ、今でいう工業団地を既に江戸時代の末期に実際に作って見せて、これから明治維新に向かっていく近代国家のモデルみたいなものを見せたという偉人だと思います」

あまり知られていないことですが、これは当時としてはかなり画期的なこと。
斉彬は、明治維新の後の日本が作られていくモデルを、薩摩の領内で見せていました。

薩長の「薩」では、近代国家のモデルをすでに作っていたのです。

多田「日本の明治維新、文明開化が精神的にはスムーズに行ったということのひとつは、斉彬の功績かもですね」
(minto)
 
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2024年02月26日07時40分~抜粋

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