日本には偉人と呼ばれる優れた人物がたくさんいます。『多田しげおの気分爽快!!~朝からP•O•N』(CBCラジオ)、「日本偉人伝」のコーナーでは、そんな歴史上の人物の生涯を、CBC論説室の後藤克幸特別解説委員が毎週ひとり紹介しています。
1月29日の放送では、パナソニックホールディングスの創業者で「経営の神様」と呼ばれている松下幸之助を取り上げました。
これからは電気の時代が来る
1894年(明治7年)、松下幸之助は和歌山県で地主の家の三男として生まれました。
4歳の時、父が米相場(先物取引)に失敗して土地を全て手放すことになり、9歳で大阪の商店に丁稚奉公という形で働きに出ることになりました。
大都会の大阪で電車が走っているのを見た松下幸之助は、「これからは電車の時代、いや電気の時代が来るんじゃないか」と確信。「大人になったら電気に関係する仕事がしたい」と思ったそうです。
15歳の時、その思いを実現すべく大阪電灯株式会社(現在の関西電力)に繋がる会社に入社。22歳で退社し、松下電気器具製作所を創業。
独自のアイディアで発明した「二股ソケット」などのヒット商品を作りました。
不況でもひとりも解雇せず
続いて、電気アイロン、ランプ、ラジオなど家電製品の開発、製造、販売の規模を拡大。
1922年、27歳の時に大阪に工場を建設しました。当時の従業員は50人ほどだったそうです。
とはいえ、なかなか順風満帆とはいきません。1929年に「世界恐慌」という経済の荒波が世界を襲い、日本も大不況に陥りました。
しかし松下幸之助は「経営が苦しくても従業員を守り抜く」との考えで、ひとりも解雇しなかったといいます。
戦後、GHQが日本に民主主義を持ち込み、労働組合の結成を指導していた中で、1946年に松下電気器具製作所の従業員が「労働組合」を結成。
松下幸之助は自らその労働組合を支援し、祝辞を述べるために結成式に出席したのです。
世界のリーディングカンパニーに
松下幸之助は、戦時中に軍需産業の部品を作っていたことを理由にGHQから公職追放されていました。
しかし、松下電気器具製作所の労働組合が嘆願運動を展開して、追放を解除されたという歴史もあります。
日本は高度成長期に入り、四畳半の間借りから始まった松下電気器具製作所は一代で「パナソニック」という世界のリーディングカンパニーに成長しました。
1961年、61歳の時に社長を退き会長に、78歳で会長も退いて相談役になります。
1979年、84歳の時に「松下政経塾」を設立。若い経営者の育成にも力を尽くし、1989年、94歳で死去しました。
松下幸之助が偉人たる理由
松下幸之助が偉人たる理由について、「人を大切にする経営哲学を生涯貫いた」と語る後藤。
世界恐慌で苦しい経営の中でも、従業員を守り抜いて1人も解雇しなかったことから、従業員が署名を集めてGHQに公職追放の解除を嘆願したという流れも、松下幸之助が人を大切にした証です。
経営の第一線を退いた後に「松下政経塾」を作り、日本の社会に貢献する若いリーダーの育成に力を注いだのも、松下幸之助が「人こそが社会の財産」という経営哲学を持ち続けていたことにあります。
この「松下政経塾」は、政治・経済・教育・法律などさまざまな分野に300人近い名だたる人物を排出しています。
(minto)
多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N
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2024年01月29日07時37分~抜粋