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トレンディドラマの起源は江戸にあり?近松門左衛門「曽根崎心中」

日本には偉人と呼ばれる優れた人物がたくさんいます。『多田しげおの気分爽快!!~朝からP•O•N』(CBCラジオ)、「日本偉人伝」のコーナーでは、そんな歴史上の人物の生涯を、CBC論説室の後藤克幸特別解説委員が毎週ひとり紹介しています。

10月30日の放送で取り上げたのは、近松門左衛門。江戸時代の元禄文化を代表する劇作家です。

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一躍人気脚本家に

1653年、越前国(現在の福井県)で武家の次男として生まれた近松門左衛門。15歳の頃、父親の「公家に仕えたい」という希望から、家族で京都へ移住することになりました。

文化の盛んな京都で、古典文学や和歌などのいろいろな教養を身につけた近松は、特に当時京都で流行していた「人形浄瑠璃」という芝居小屋に興味を持ち、たびたび通うようになりました。

20歳の頃には、京都の人形浄瑠璃の劇場で脚本を書くようになります。近松の脚本は大当たりし、ヒット作を生む人気脚本家として、そこそこ名を上げるようになっていったのです。

代表作「曽根崎心中」

43歳の頃には、人形浄瑠璃だけでなく歌舞伎の脚本にも進出した近松。同じく観客の受けがよく、近松が「元禄歌舞伎ブーム」を巻き起こしたといわれています。

1703年、50歳の時に、人形浄瑠璃の有名な語り手で、義太夫節(ぎだゆうぶし)の創始者の竹本義太夫(たけもとぎだゆう)さんから、脚本を依頼されます。この時に書き下ろした作品が、かの有名な「曽根崎心中」。これが近松の代表作となりました。

これは、大阪・曽根崎天神で実際に起きた心中事件を取材して書いた、初めての「世話物(庶民を扱った浄瑠璃)」でした。流れるような美しい文章で書かれたこの文章は、観客が涙するような文体だったのです。

有名な「道行き」のシーン

「この世の名残り、夜も名残り。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそ哀れなれ。」

これは、2人が死に場所を求めてさまよう「道行き」のシーンの名文。蜷川幸雄さんが演出した現代版の芝居でも、このセリフは使われていました。

劇場は大入りで、当時借金を抱えていた竹本義太夫は、すべての借金を返済できたという逸話も残っています。

近松は浄瑠璃100本以上、歌舞伎30本以上の脚本を残して、72歳で生涯を閉じました。

日本のシェイクスピア

近松が偉人たる所以は、町民の文化が花開いた元族時代に「庶民を主人公にした新しい演劇の形を作り上げた」というところにあります。

それまでは、武士中心の文化。歴史上の有名な事件を題材にした、侍たちの武勇伝を描くのが演劇の中心でした。

近松は、街中で実際に起きた事件を取材した現代劇、今でいう「トレンディドラマ」を作った、日本で最初の人だったのです。

同時代を生きる等身大の庶民の主人公に、親子の情、恋愛の悲しみや苦しみ、喜び、夫婦の情愛、幸福とは死とは何かという大切な感情を生き生きと脚本の中に込めて描いた近松を、「日本のシェイクスピア」と評価する人もいます。

近松門左衛門は、江戸時代に最先端の演劇・現代劇を確立させた偉人です。
(minto)
 
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2023年10月30日07時35分~抜粋

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