多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N

「太陽の塔」「芸術は爆発だ!」岡本太郎ってどんな人?

日本には偉人と呼ばれる優れた人物がたくさんいます。『多田しげおの気分爽快!!~朝からP•O•N』(CBCラジオ)、「日本偉人伝」のコーナーでは、そんな歴史上の人物の生涯を、CBC論説室の後藤克幸特別解説委員が毎週ひとり紹介しています。

10月23日の放送で取り上げたのは、芸術家の岡本太郎さん。
1970年に開催された大阪万博のシンボル「太陽の塔」の制作者として、また「芸術は爆発だ」の言葉で有名な岡本さんの半生を紐解きます。

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ピカソの絵に衝撃

1911年(明治44年)に神奈川県川崎市で生まれた岡本太郎さん。父は漫画家の岡本一平さん、お母さんは歌人で小説家の岡本かの子さんという文化人の家庭で育ちました。

7歳で慶應幼稚舎に入学。中学校時代には友人と作成した同人誌の挿絵を描くなど、絵の才能を開花させ始めていました。

昭和4年、18歳の時に東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学。19歳でフランス・パリに渡った岡本さんは、画廊で見たピカソの絵に衝撃を受け、前衛芸術に興味を持ち始めたそうです。

日本中に名前を知らしめる転機

31歳、昭和17年に日本に帰り、徴兵されて中国戦線へ配属になりますが、35歳で復員し帰国。37歳の頃から「アヴァンギャルド芸術研究会」という組織を作って、活動を深めていきました。

前衛芸術とは、今までにない抽象的なものに芸術的な価値や心を表現していこうという新しい芸術運動です。

岡本太郎さんの名前を一躍日本中に知らしめる転機になったのは昭和42年、56歳で大阪万博のテーマ館のプロデューサーに就任した時です。

日本で初めて、戦後の高度経済成長を象徴するイベントとして誘致された大阪万博。このプロデューサーになり、「太陽の塔」という歴史に残るモニュメントを登場させたというわけです。

「芸術は爆発だ!」

1980年、70歳の時はテレビコマーシャルに出演。あの有名な「芸術は爆発だ」という言葉を日本中に届けて、流行語となりました。

その後も映画やテレビなど幅広いメディアで活躍を続けましたが、平成7年(1996年)、84歳で呼吸不全で亡くなりました。

それまで難しい人たちが遠いところでやっている遠い存在だった前衛芸術を、岡本さんはわかりやすい言葉や、独特のパフォーマンスで届け、大衆化しました。

これが、岡本太郎さんの偉人たる所以。芸術界の大御所や権威をものともせず、一般の庶民に向かってメッセージを発し続けたのです。

大御所の意見を無視

1970年の大阪万博のメイン会場だったお祭り広場。
当時「建築界の巨匠」といわれていた大御所の丹下健三さんが、「メイン会場は大屋根で日差しを遮り、静かな空間の中で人々が集い合う」という設計をしていました。

しかし岡本さんは「僕はべらぼうなことをやりたいんだ」と、その大御所が設計した大屋根のど真ん中に巨大な穴をぶち抜き、高さ40mの「太陽の塔」を建設したという逸話があります。

結果、万博のシンボルになったのはまさにその「太陽の塔」。万博のあと大屋根は撤去されましたが、「太陽の塔」は今も残っています。
「前衛芸術の作品ってこんなに面白いものだ」という意識が日本中に浸透する、大きなモニュメントになったのです。

「芸術の啓蒙家」だった

「芸術は爆発だ!」という発言は、岡本さんがテレビCMで放ったフレーズで、1986年に流行語大賞を受賞しています。

「芸術というのは、皆さんの心の中にある根源的な爆発みたいなもの。つまり皆さんのそばにあるのが芸術であり、決して遠い存在ではない」

岡本さんはこういったことを語りかけていたと思われます。

この言葉は、たちまち庶民の心に響いて共感を呼んだメッセージとして、いまだに語り継がれています。

岡本さんは、難しい前衛芸術を大衆に届くものにした「芸術の啓蒙家」でした。
(minto)
 
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2023年10月23日07時38分~抜粋

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