今や生活に欠かせなくなったネット通販。
日々、配達員の方が働いているからこそ受けられるサービスです。
『多田しげおの気分爽快!!~朝からP•O•N』の1コーナー、「ルーツ・オブ・カンパニー」では、誰もが知る会社の知られざるルーツ、「創業当時、実はこんな仕事をしていた」という歴史を紹介しています。
8月3日の放送で取り上げた会社は、ヤマト運輸。
物を運ぶサービスのことを当たり前のように「宅急便」と言いますが、これはヤマト運輸の登録商標です。
それぐらい生活に浸透しているヤマト運輸の宅急便ですが、創業当時はどのようなサービスを行なっていたのでしょうか。
「宅急便」は登録商標
ヤマト運輸の今の業種は「小口貨物輸送」といって多くの方を対象に少しの荷物を運んでいるもの。
この業界のパイオニアであり、商標登録された「宅急便」という言葉の後に、一般名詞として「宅配便」が作り出されたというほどです。
しかし、創業当時から小口貨物輸送を行なっていたわけではなく、貸切トラック輸送を行なっていました。
車を使って輸送するという点では今とあまり変わりませんが、昔は荷主が不特定多数というわけではなく、特定の荷主と契約して荷物を運んでいました。
例えば、三越百貨店の商品を東京から横浜まで輸送したり、日本橋の魚市場の魚を運んだりしていたそうです。
ヤマト運輸は1919年(大正8年)に創業し、銀座でトラック4台から始まりました。
10年後には東京と横浜の間で定期便を始め、戦後の高度経済成長期にはトラック輸送の需要が高まったため、爆発的に業績が成長していきました。
ただ、長距離輸送の業界にどんどん会社が参入していた中で出遅れてしまい、オイルショックも相まって経営危機に陥ってしまいます。
この業界のパイオニアであり、商標登録された「宅急便」という言葉の後に、一般名詞として「宅配便」が作り出されたというほどです。
しかし、創業当時から小口貨物輸送を行なっていたわけではなく、貸切トラック輸送を行なっていました。
車を使って輸送するという点では今とあまり変わりませんが、昔は荷主が不特定多数というわけではなく、特定の荷主と契約して荷物を運んでいました。
例えば、三越百貨店の商品を東京から横浜まで輸送したり、日本橋の魚市場の魚を運んだりしていたそうです。
ヤマト運輸は1919年(大正8年)に創業し、銀座でトラック4台から始まりました。
10年後には東京と横浜の間で定期便を始め、戦後の高度経済成長期にはトラック輸送の需要が高まったため、爆発的に業績が成長していきました。
ただ、長距離輸送の業界にどんどん会社が参入していた中で出遅れてしまい、オイルショックも相まって経営危機に陥ってしまいます。
宅急便ができる前はどうだった?
会社が苦境に立たされていた時、当時の社長だった小倉昌男氏が注目したのが、小口荷物の輸送。
今は個人で誰かに荷物を運ぶのをお願いするのは当たり前ですが、当時はあまりそのようなサービスは発達していませんでした。
もちろん郵便局はありましたが、荷物を郵便局まで持っていく必要がありましたし、細かい融通がきかない、さまざまな制約があるなど、使い勝手がイマイチでした。
そしてヤマト運輸は、「客の立場になってものを考える」という理念の下、各家庭のちょっとした荷物を確実に丁寧に送り届けるサービスを1976年(昭和51年)に始めました。
これが一気に浸透し、後に他の運輸業者も小口荷物輸送のサービスを始めるようになりました。
ヤマト運輸は20年かけて全国に配達網を広げ、今やアジアにもそのネットワークは広がっています。
そしてこの6月には、日本郵便と物流サービスに関する協業について基本合意を行うなど、日本の配送業界も大きく変わりつつあるようです。
(岡本)
今は個人で誰かに荷物を運ぶのをお願いするのは当たり前ですが、当時はあまりそのようなサービスは発達していませんでした。
もちろん郵便局はありましたが、荷物を郵便局まで持っていく必要がありましたし、細かい融通がきかない、さまざまな制約があるなど、使い勝手がイマイチでした。
そしてヤマト運輸は、「客の立場になってものを考える」という理念の下、各家庭のちょっとした荷物を確実に丁寧に送り届けるサービスを1976年(昭和51年)に始めました。
これが一気に浸透し、後に他の運輸業者も小口荷物輸送のサービスを始めるようになりました。
ヤマト運輸は20年かけて全国に配達網を広げ、今やアジアにもそのネットワークは広がっています。
そしてこの6月には、日本郵便と物流サービスに関する協業について基本合意を行うなど、日本の配送業界も大きく変わりつつあるようです。
(岡本)
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