3月30日放送の『多田しげおの気分爽快!!~朝からP•O•N』では、新潟市秋葉区にある「石油の世界館」を取り上げました。
新潟には以前、日本一の産油量を誇っていた「新津油田」がありました。石油の世界館は、石油採掘の歴史や石油と人とのつながりを紹介している博物館です。
パーソナリティの多田しげおが、新津市秋葉区役所のタナベさんにお話を伺いました。
石油と人のつながりが見える。新潟市秋葉区「石油の世界館」
「腰の国から燃える水が献上された」
新潟での石油の採掘はいつ頃から始まったのでしょうか。
「日本書紀」には、天智天皇の7年(668年)に、「越国、燃ゆる土燃ゆる水を献ず」と記述されています。
これは「越の国から、燃える水と燃える土が天皇に献上された」という意味。
「越の国」とは新潟のこと、「燃える水」は今でいう石油のことです。
多田「油田のようなものがあるぞ、ということがわかっていたわけですね」
タナベさん「油が染み出ていたりしたんじゃないですかね」
新津油田では、1613年に石油採掘を始めました。これは江戸時代の最初の頃です。
「日本書紀」には、天智天皇の7年(668年)に、「越国、燃ゆる土燃ゆる水を献ず」と記述されています。
これは「越の国から、燃える水と燃える土が天皇に献上された」という意味。
「越の国」とは新潟のこと、「燃える水」は今でいう石油のことです。
多田「油田のようなものがあるぞ、ということがわかっていたわけですね」
タナベさん「油が染み出ていたりしたんじゃないですかね」
新津油田では、1613年に石油採掘を始めました。これは江戸時代の最初の頃です。
最盛期は大正初期
新津油田とは、新潟県新潟市新津地区南東の丘陵地帯に分布する出油地帯の総称。幅約6Km、延長16Kmとかなりの広範囲でした。
実は新津油田では、平成8年まで採掘が行われていました。
最盛期は1917(大正6)年。年間12万キロリットルの産油量を誇り産油量日本一となりましたが、その後は減少の一途をたどりました。
今現在石油の井戸はほとんど閉じられているものの、地震などがあると山のところどころからいまだに油が染み出してしまうこともあるといいます。これが川に流れ出てしまうという問題もあるようです。
産油量としては事業にならない量。これまでは石油で潤ってきましたが、今は石油の流出を防ぐ取り組みが必要となります。「行政としてはがんばっているところです」とその苦労を語るタナベさん。
「そのストーリーが新潟の、日本の石油の採掘というわけですね」と多田も納得の様子。
実は新津油田では、平成8年まで採掘が行われていました。
最盛期は1917(大正6)年。年間12万キロリットルの産油量を誇り産油量日本一となりましたが、その後は減少の一途をたどりました。
今現在石油の井戸はほとんど閉じられているものの、地震などがあると山のところどころからいまだに油が染み出してしまうこともあるといいます。これが川に流れ出てしまうという問題もあるようです。
産油量としては事業にならない量。これまでは石油で潤ってきましたが、今は石油の流出を防ぐ取り組みが必要となります。「行政としてはがんばっているところです」とその苦労を語るタナベさん。
「そのストーリーが新潟の、日本の石油の採掘というわけですね」と多田も納得の様子。
鉄道の発達と石油の関係
「新津は、鉄道にとっては新潟よりも要衝なんですよね」と語る、鉄道ファンの多田。
「大正時代、日本の鉄道がどんどん発達していった頃、新潟においては出てきた石油をいかに運ぶか、があって鉄道が発達したんですかね?」という多田の質問に、「その通りです」とタナベさん。
「石油を運搬するために線路を引き、それを各地に運搬するために新津の街が鉄道の街といわれるようになった」ということです。
鉄道の発達の陰に、石油の存在があったというわけです。
「日本の成長過程には、そういうものが結びついているんですね」と、しみじみ納得した多田でした。
(minto)
「大正時代、日本の鉄道がどんどん発達していった頃、新潟においては出てきた石油をいかに運ぶか、があって鉄道が発達したんですかね?」という多田の質問に、「その通りです」とタナベさん。
「石油を運搬するために線路を引き、それを各地に運搬するために新津の街が鉄道の街といわれるようになった」ということです。
鉄道の発達の陰に、石油の存在があったというわけです。
「日本の成長過程には、そういうものが結びついているんですね」と、しみじみ納得した多田でした。
(minto)
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