多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N

乾電池は日本生まれ。作ったのはひとりの時計職人だった

身近にあるもので、意外なものが日本製で驚くことがあります。

6月16日放送の『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』の「北辻利寿のコレ、日本生まれ」では、乾電池を紹介しました。

CBC論説室の北辻利寿特別解説委員が解説します。

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電池とは?

今は普通に電池といえば乾電池をさします。“乾”電池があるということは“湿”電池があるのです。

多田しげおは「中学の理科で先生がやってくれた実験」を思い出します。

北辻「液体の中に2つの金属の棒を入れてやりました。そうすると電力がおきる。これが湿電池です。これがもともとの電池のはじまりです」

2つの金属の間の液体によって化学反応を起こさせて電気を発生させる。イタリアのボルタさんが液体電池、湿電池を作りました。そこから電圧のボルトという名前ができたそうです。

多田は「液体の中で化学反応を起こすことで電力が起きる、その液体を含めたそれが電池」とまとめます。
 

ペリーが液体電池を日本に

ところがこれだと液体がこぼれないように運ぶのが大変でした。
その不便なものが日本にやってきたのが幕末。
ペリーが来て幕府へのおみやげで電池を持ってきたのです。

ところがその日本にひとりの若者がいました。
屋井先蔵(やいさきぞう)さんといって、1863年、越後に生まれました。
この方が、明治になって東京の時計店で働き始め、その後、22歳の時にアメリカからきた電池、液体電池を組み込んで電気時計を作ったのです。
 

屋井乾電池

これは画期的な発明でしたが、手入れが大変で、液体がこぼれると中の部品が錆びてしまう欠点がありました。
しかも冬は凍結してしまい、時計が動かなくなりました。

そこで電池の改良に挑戦して、水に溶けないパラフィンを液体にまぜることで液体を固めました。
これで電池の役目は果たします。さらにそのまわりを金属のケースで包み込みました。
今日の乾電池みたいですね。

多田「乾電池は金属のパッケージに入っている電池。液体だったものを固体にして、金属のパッケージに入れたものなんですね」

このように屋井さんが1887年に発明した「屋井乾電池」が生まれたのです。
 

日清戦争で普及

この「屋井乾電池」は四角形で高さ12cmくらいでした。
ところが最初は売れませんでした。というのも当時の日本には乾電池を使う電気製品が多くなかったのです。

では、何で注目されたのでしょうか?

北辻「一番大きな評価を得たのが1894年、日清戦争です。陸軍から大量の注文が来て、屋井乾電池は海を渡りました。
戦場の満州はとても寒い。液体電池はすぐ凍る、屋井乾電池は凍らない。これは電信機に使われました」

中国の大陸で乾電池が大成功したというニュースが満州から届いて、この勝利は屋井乾電池によるものだと日本全国に広がりました。

当然、電池で動くものも増えてきました。乾電池がいいという評判も高くなり、屋井乾電池が売れはじめます。

北辻「屋井さんは乾電池の合資会社を作って、大量生産に乗り出しました」
 

はじまりはひとりの時計職人

今の乾電池は大きさが決まっています。戦前には単一と単二が当時の標準規格でしたが、戦後に単三、単四、単五という規格が誕生しました。

多田「規格が決まるということは、電池で動いているものがたくさんあるということ。その始まりが屋井さんが作った乾電池なんですね」

北辻「暮らしに欠かせない乾電池ですが、その乾電池を手に取るとき、凍てつく寒さ、雪国の越後で生まれて後に乾電池を作った時計職人に思いを馳せてみたいですね。すばらしい発明でした。まさに日本生まれ、乾電池は文化です」

今の便利な生活を支えてくれる乾電池が日本生まれとは意外でした。それもひとりの時計職人から生まれたものとは。感謝しかありません。
(みず)
 
多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N
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2021年06月16日07時42分~抜粋

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