名古屋を代表するものといえば、名古屋城天守閣にある金のしゃちほこ(以下「金シャチ」)。
ふだんは遠くからしか見ることができませんが、先月20日から地上に降りて一般公開された後、今月10日からは3ヶ月間、栄でも公開されます。
4月9日放送『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』では、お城などの建造物に詳しい広島大学名誉教授の三浦弘之先生に、金シャチに関するいろいろなお話を伺いました。
しゃちほこの金は本物!
名古屋城の金シャチの高さは、雄は2.62mで雌は2.57m。
お城のしゃちほこの高さは一般的に1~1.5mですから、かなり大きいことがわかります。
今も現存する天守に限定すると最大なのは姫路城ですが、名古屋城は姫路城と比べても床面積で2倍、体積で3倍の大きさを誇り、しゃちほこもそれに比例して大きいものが作られます。
そして名古屋城の金シャチがすごいのは、大きさだけではありません。
見た目が金色なのは金箔かと思いきや、金の板をウロコ状にして貼ったもの。
昔の記録によりますと、約2万両の金でできた貨幣を溶かして作っていて、純金の重さでいえば215.3kg。
当時と今では金の価値は異なりますが、4月8日時点では6,795円(税込価格)でしたので、換算すると約14億6千万円。
それ以外にも労力がかかっていますので、建築にはかなりの金額をかけていたことがわかります。
名古屋城を作ったのは何のため?
関ヶ原の合戦も終わり、江戸幕府もすでに開始された1609年(慶長14年)に、これだけ立派なお城を作ったのは、なぜなのでしょうか。
三浦先生「豊臣秀頼がまだ大阪城にいまして、西日本にいた大名たちはみんな豊臣系大名だったんですね。
そうしますと、秀頼を頭にして『江戸幕府を倒そうぞ!』ということになってしまいますと、幕府は負けますね。
西日本の大名ににらみを効かせて、幕府に反乱させないために全国にお城を作りましたが、その象徴が金のしゃちほこなんです」
西日本に残る勢力に対する大きな要塞であり、幕府の権威をひけらかすために作られたのが、名古屋城だったというわけです。
金シャチを溶かして藩の収入に!?
名古屋城は1945年(昭和20年)に空襲に遭ったため、現在の名古屋城は再建されたもの。
そのため、今の金シャチは一般的には2代目といわれていますが、三浦先生によりますと、厳密には5代目なのだそう。
金シャチのウロコは金ですが中は木造、毎日太陽光にさらされていると100年ほど経てば下地の木が傷んでしまうため、修理のために何度か下ろしていたのです。
修理の際は下地から作り直しとなりましたが、実は外側に貼っていた金を尾張藩の財源にするため、一部を取っていたそうです。
最初は18金でしたが、次第に銀の割合を増やすことで金の割合が減っていき、最後には14金程度の状態。
それだけではなく金の板も薄くなっていき、銅板などをはさむなどして、残念ながら金の輝きもなくなっていき、白っぽくなってしまいました。
新しい金シャチはどこが違う?
江戸時代から何度か修理された金シャチですが、空襲により名古屋城ごと焼失。
その際、残った金は回収されたのですが、戦後、アメリカの進駐軍が持って帰ってしまいました。
後には返還されたのですが20kgしかなく、この金は現在、名古屋城に展示されている金の茶釜と名古屋市旗の先に付ける竿頭(かんとう)に使われています。
そして、現在の金シャチはどうやって作られたのかといいますと、1959年(昭和34年)に再建された際に、大阪にある造幣局によって新たに作られ、これが現在の金シャチです。
形は焼失する前に作成されていた図面によって再現されましたが、金の貼り方は変わっていて、現在は銅製のシャチに金の板を鋲で止めていますので、100年ごとに修理する必要はありません。
今公開されている金シャチを間近に見ることができますので、どのような作りになっているのか、実際に確かめてみてはいかがでしょうか。
(岡本)
多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N
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2021年04月09日08時12分~抜粋