多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N

改めて振り返る、昭和の大スター・石原裕次郎

2020年07月20日(月)

エンタメ

渡哲也さんや神田正輝さん、舘ひろしさんなどの有名俳優が所属する事務所、石原プロモーションが2021年1月をもって解散することになりました。

発表のあった7月17日は故・石原裕次郎さんの命日で、好きだった花にちなんで「あじさい忌」とも呼ばれています。

この日に放送された『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』では、CBC論説室の特別解説委員・石塚元章が、昭和の大スターだった石原裕次郎さんについて、あらためて解説しました。

世代によって異なる印象

裕次郎さんはわずか52歳の生涯でしたが、芸能史にさまざまな功績を残していて、世代によって印象が変わってきます。

もともとは日活の映画俳優としてデビューしましたが、後に石原プロモーションを設立して映画制作にも進出。

世代によっては、『太陽にほえろ!』(日本テレビ系)など、刑事ドラマに出演していたイメージが強いという方もいるでしょう。

そして、晩年は6年にも及ぶ闘病生活を余儀なくされ、1987年(昭和62年)に亡くなられました。

多田しげお「日活映画でデビューして大ブーム。あれは私たちよりもちょっと上の世代がど真ん中で、私の兄なんかが8歳違いですけど、むちゃくちゃ大ファンで日活映画を毎回観に行って、帰ってくると『俺は裕次郎だから』っていう雰囲気で。『兄ちゃん背え低いやんか』って」

石塚の世代はその下で、もっと下で平成生まれの加藤愛アナからすると、「『太陽にほえろ!』とか名前を聞いたことはあるんですけど、観たことはないっていう」ぐらいの認知度のようです。
 

ビッグスターが生まれた背景

では、昭和の時代になぜ、これほどのビッグスターが誕生したのでしょうか?

もちろん本人のスター性があるからですが、石塚はさらに3つの要因を挙げました。

1つ目は時代背景で、裕次郎さんがデビューした1956年(昭和31年)は、高度経済成長に入った頃。

敗戦を経験した後、これから日本が良くなっていくのではないかという機運が高まった頃で、その時に背が高くてカッコいいスターが現れたということ。

2つ目はお兄さん、言わずと知れた石原慎太郎さんの存在。

芥川賞を受賞した小説『太陽の季節』で描かれた新しい若者のキャラクターが受け、映画化された際に裕次郎さんが端役でデビュー。

兄弟の関係は強く、弟が兄を売り込んだり、後に慎太郎さんが都知事に立候補した際には、「裕次郎の兄です」とアピールしたほどです。(もちろん、慎太郎さん自身の知名度も高いのですが)

3つ目は日活という会社の事情。

当時は五社協定というルールがあり、大手映画会社がそれぞれ監督や俳優を囲い込むことで、俳優は他社の映画に出ることはできませんでした。

日活は良い俳優を囲い込めなかったため、やむを得ず若手を見つけてきて売り出す手法を取り、裕次郎さんもその手法で人気となった1人です。
 

ボス役を始めた年齢は…

裕次郎さんは、映画のスタイルにもさまざまな影響を与えていて、例えば代表作の映画『嵐を呼ぶ男』では、主演だけではなく主題歌も歌っていて、マルチな活躍を遂げています。

また、当時スター同士の結婚は禁止されていたのですが、裕次郎さんは婚前旅行で北原三枝さんとハワイに行くという実力行使に出た後、記者会見や豪華な結婚披露宴を行うのですが、この形は後のモデルになっています。

そして、俳優は一生の仕事ではないとして石原プロモーションを設立し、映画『黒部の太陽』を制作し、電力会社やゼネコンとタイアップしてチケットを売ったという点で、経営者としての手腕を発揮しました。

その後はテレビドラマに進出するのですが、『太陽にほえろ!』で初めてボス役を演じたのは、なんと38歳!

こんな貫禄のあるアラフォーは見たことがありませんが、これまで説明してきたのは芸能活動のほんの一部。

いかに短い生涯で、濃い人生を駆け抜けて来たのかがわかりますね。
(岡本)
多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N
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2020年07月21日07時20分~抜粋
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