多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N

見ていると落ち着く?ブームの兆し・古墳について知ろう

最近、ちょっとした古墳ブームが起こっており、全国の古墳を撮影して旅をする女性も増えているとのことです。
その背景には「古墳を見ていると落ち着く」という声や、パワースポットとして注目を集めている面があります。もちろん本来の、考古学の対象としての魅力も未だ衰えていません。

そこで12月7日の『多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N』では、赤塚次郎さんにお話を伺いました。
赤塚さんは愛知県文化財埋蔵センターの前の副センター長で、今はNPO法人古代邇波の里・文化遺産ネットワーク理事長で、古墳博士でもあります。
聞き手は多田しげおです。

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そもそも古墳とは

そもそも「古墳」の定義は何でしょうか?

赤塚さん「二つキーワードがあります。ひとつは高く土を盛った場所。もうひとつは邪馬台国くらいから律令が文書で成立した間に、日本の歴史の中で、お墓づくりに没頭した時期があり、古墳時代と言われています。そういうものの墳墓を取り出してきて古墳と言います」

大きなお墓作りに没頭していたのは、権力者たちだけではなかったようです。

赤塚さん「古墳は権力者だけのものではなく、家族墓もあります。権力者たちに呼応する形で、地域の家族でお墓を作ろうとか一種のブームがあったかもしれません。
あるいは地域でなんらかの出来事がある、その出来事をきちんと成し遂げた英雄を奉るために、みんなで大きなお墓を作って後世に残そうというものもあります」
 

日本各地に20万基もあった?

古墳が作られたのは、具体的にいつなのでしょう。

赤塚さん「だいたい三世紀から七世紀のはじめくらいです。二世紀まで遡る可能性もあります」

古墳が多い場所はどこでしょう。

赤塚さん「卑弥呼がいた頃は各地域社会がすごく個性的で、いわば部族社会みたいで、そこでそれぞれ面白いお墓を作っています。
その中で巨大な墳墓もあり、丹後、出雲、東海地域だと岐阜にも多いし、長野県の北部にも見つかっています。
日本各地に非常に個性的な文化がたくさんありました」

どれくらいの古墳があったのでしょうか。

赤塚さん「だいぶ壊されていて、実態は20万基くらいあったと言われています。大半が小さいです。5メートルくらいのものが主体です」

大きさで言えば、大阪府堺市にある大仙陵は世界最大です。

赤塚さん「500m弱ありますが、あれは特別です。大仙陵は「仁徳天皇陵」としても知られていますが、実際の被葬者は明らかでなく仁徳天皇とはつながらないようです。
また日本で二番目に大きな応神天皇陵は400m規模ですが、こちらは応神天皇のお墓だとされています」
 

形状から見る古墳

大仙陵をはじめ、形が特徴的な前方後円墳。その名の由来は前が四角くて、後ろが円と言われていますが、赤塚さんによれば、実はちょっと違うのだそうです。

赤塚さん「本来、古墳に前とか後ろ(の概念)はありません。前方後円墳と名付けたのは、蒲生君平という江戸時代の学者で、牛車に見立てて名付けました。
突出した前方部はお祭りの舞台です。お墓の中心部分は円の方です」

その他、形状から見た古墳には方墳や円墳もあります。

赤塚さん「圧倒的に多いのは方墳や円墳です。その場合は、墓前祭はその近くでこじんまりとやるのが主流です。

前方後円墳となると特別な人が葬られている可能性が高いです。そうなると舞台を作って、そこで儀式をして次の王様となります。

権力者の墓というより、イメージとして、この地域で何かイベントがあって、この部族社会が立ちいかなくなるような大災害とか村の復興とか、それを行うためにリーダーを選ぶ、そのリーダーがその成し遂げたことに対して、人々が感謝してその人を英雄として称えてお墓を作る、というのが多いと思います」
 

古墳の中はどうなっている?

通常、古墳というのは人が入れるように作られているのでしょうか?

赤塚さん「時代によって、地域によって、葬られ方が違うので、入れるのもあるし、入れないのもあります。
木の棺だけを入れてその上に土を被せるものもあります。
石の部屋に葬られる人もいる。石の部屋も出入りが可能なものと、不可能なものがあります。古い時代ほど出入り不可能です。

入れる場合、前方後円墳なら、真ん中あたりに王様が寝る部屋があって、そこからお墓の南側の中腹あたりに出入り口をつけるような形です。それを石で埋めたり、石の扉を作ったりいろいろです」

古墳はお墓です。それでは、葬られた人はどのような形で残っているのでしょう。

赤塚さん「ほとんどのお墓は木の棺を使っていて、腐ってしまいます。骨も、日本は湿気が多いのでほとんど土に還ります。うまくいって歯とか、部分的なものが残るくらいで、石室はがらんどうとなっている状態です。
一方、当時の一級の器や刀はそのまま残っています」
 

埴輪が生まれた理由

副葬品についても尋ねました。

赤塚さん「土器、焼き物が多く、埴輪もあります。お墓の周りでお祭りをする時、器が必要となりますが、それが埴輪の起源なんです。もともと器は壺であったり台でした。次の段階になると、それを並べることで、その中は神聖な場所ですよという意味になります。
人の形や馬の形は埴輪文化の一番最後に出てくるものです」

埴輪と言うと、人の形をしたイメージを持つ方が多いでしょう。

赤塚さん「人の形の埴輪の一番最初は、盾持ち人、盾そのものに上に顔をつけたものです。個性的でとても面白いものです。
古墳の前で行ういろいろなお祭りがありますが、それをそのままそっくり、古墳の中の見えるモニュメントとして作り上げていく。それで外側に見える形で置きました」

古墳の魅力は?

赤塚さん「古墳の中にある副葬品ひとつにしても分析すると、工芸技術とか職人さんのルーツとか、焼き物だと地域性が出ますので、当時の地域の文化の水準がわかる。
また、それが現在とどうつながっているかわかってきて、とても楽しいです」
(みず)
多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N
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2018年12月07日08時15分~抜粋

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