6月11日放送の『多田しげおの気分爽快‼︎』では城の「本丸」を取り上げました。
復元された名古屋城の本丸御殿が8日(金)から一般公開されましたが、この「本丸」、いったいどのような意味を持つものなのでしょう?
今回は広島大学名誉教授の三浦正幸先生に伺いました。
お城の「本丸」とはどこを指すのか?
復活した名古屋城の本丸御殿
名古屋城の本丸御殿が作られたのは1615年。慶長20年、大阪夏の陣があった年です。
戦前の1930年(昭和5年)には天守閣とともに国宝に指定されましたが、第二次世界大戦の最中、1945年(昭和20年)5月に空襲により天守閣ともども焼失してしまいました。
9年がかりの復元工事が完了して、その本丸御殿が一般公開されました。総工費150億円。400年前の建物を、当時の資料を基に忠実に復元した豪華絢爛な建物です。
戦前の1930年(昭和5年)には天守閣とともに国宝に指定されましたが、第二次世界大戦の最中、1945年(昭和20年)5月に空襲により天守閣ともども焼失してしまいました。
9年がかりの復元工事が完了して、その本丸御殿が一般公開されました。総工費150億円。400年前の建物を、当時の資料を基に忠実に復元した豪華絢爛な建物です。
そもそも本丸ってどういう場所なの?
「本丸は城の中心なんで、城主が住むところです」と三浦先生。
「我々は城の中心は天守閣だと思い込みがちなんですが、あくまでも本丸が中心なんですね」と多田しげお。
天守閣は権威の象徴であり、籠城の時にしか使わないので、普段は空き家だそうです。お殿様は本丸に御殿を建てて、そこに住んでいました。
現代でも日常会話で「ここが本丸だ」と言いますが、この場合は物事の中心、最重要部分という意味で、まさに城の本丸に由来しています。
「我々は城の中心は天守閣だと思い込みがちなんですが、あくまでも本丸が中心なんですね」と多田しげお。
天守閣は権威の象徴であり、籠城の時にしか使わないので、普段は空き家だそうです。お殿様は本丸に御殿を建てて、そこに住んでいました。
現代でも日常会話で「ここが本丸だ」と言いますが、この場合は物事の中心、最重要部分という意味で、まさに城の本丸に由来しています。
名古屋の殿様は本丸にいなかった
「一般論でいえば、普通の城は城主が住むところが本丸なのですが、名古屋城は二之丸というところにお殿様が住んでいました」
二之丸というと、現在の名古屋城では二之丸庭園があります。
「二之丸の御殿は、二之丸庭園の南の方にあったんですね。今はなくなって、ただの広場になっちゃってます」
名古屋城は、徳川家康の九男で尾張藩主、義直の居城として作られました。
「義直は、最初は本丸御殿に住んでたんですが、たった4年間住んだだけで、二之丸御殿に引っ越してしまったんです」
二之丸というと、現在の名古屋城では二之丸庭園があります。
「二之丸の御殿は、二之丸庭園の南の方にあったんですね。今はなくなって、ただの広場になっちゃってます」
名古屋城は、徳川家康の九男で尾張藩主、義直の居城として作られました。
「義直は、最初は本丸御殿に住んでたんですが、たった4年間住んだだけで、二之丸御殿に引っ越してしまったんです」
二之丸に引っ越した理由
どうして義直は二之丸に引っ越したんでしょうか?
「一応これ、徳川の城ですから、将軍が江戸から京都に上洛する際には本丸に泊まるわけです。そうすると、将軍上洛の度に本丸御殿をいちいち明け渡さなきゃいけないんですよね」
それが面倒なので、義直は本丸御殿は将軍様の専用の宿泊所としてしまい、自分は二之丸に引っ越してしまったというわけです。
「義直は、江戸に対して結構ライバル心があったようですから、だったらもう二之丸を作って住むから、本丸は勝手に使ってちょうだい、と、こういう感覚だったのかもしれませんね」と多田が推理します。
「三代将軍家光からして見れば、義直は叔父さんに当たります。義直は江戸のライバルと言いうより、幕府に対して楯突く存在という疑惑を持たれてたんです」
義直にとっては、本丸にずっと住んでいるよりも、しっかり幕府に明け渡してしまった方が得策だったそうです。
「自分は二之丸に引っ込むということで、幕府に対して控えめな姿勢を見せることで、尾張藩は謀反を起こしませんよ、という意思表示をしたかったかと思います」
「一応これ、徳川の城ですから、将軍が江戸から京都に上洛する際には本丸に泊まるわけです。そうすると、将軍上洛の度に本丸御殿をいちいち明け渡さなきゃいけないんですよね」
それが面倒なので、義直は本丸御殿は将軍様の専用の宿泊所としてしまい、自分は二之丸に引っ越してしまったというわけです。
「義直は、江戸に対して結構ライバル心があったようですから、だったらもう二之丸を作って住むから、本丸は勝手に使ってちょうだい、と、こういう感覚だったのかもしれませんね」と多田が推理します。
「三代将軍家光からして見れば、義直は叔父さんに当たります。義直は江戸のライバルと言いうより、幕府に対して楯突く存在という疑惑を持たれてたんです」
義直にとっては、本丸にずっと住んでいるよりも、しっかり幕府に明け渡してしまった方が得策だったそうです。
「自分は二之丸に引っ込むということで、幕府に対して控えめな姿勢を見せることで、尾張藩は謀反を起こしませんよ、という意思表示をしたかったかと思います」
本丸より広い二之丸
義直の住まいとなった二之丸は、どんな御殿だったんでしょうか?
「もちろん豪華です。本丸御殿は立派だと言いますけれども、二の丸御殿は、今回再建された御殿の面積から比べますと、大体4倍以上の面積がありましたね」
多田「やっぱり、それって、義直がライバル心をむき出して、もっと良いモノを作ったということじゃないですか?」
三浦先生「そういうわけではないんです。江戸時代は、時代がだんだん下がってきますと、御殿にたくさんの人が住むようになって、役割が多くなって、結局どんどん増築して大きくなっちゃったんです」
「もちろん豪華です。本丸御殿は立派だと言いますけれども、二の丸御殿は、今回再建された御殿の面積から比べますと、大体4倍以上の面積がありましたね」
多田「やっぱり、それって、義直がライバル心をむき出して、もっと良いモノを作ったということじゃないですか?」
三浦先生「そういうわけではないんです。江戸時代は、時代がだんだん下がってきますと、御殿にたくさんの人が住むようになって、役割が多くなって、結局どんどん増築して大きくなっちゃったんです」
三之丸の役割
城によっては本丸、二之丸に次いで三之丸があります。どういう役目の御殿なんですか?
「名古屋城の場合には三之丸に御殿はなかったんです。例えば姫路城は三之丸に御殿があったんですが、これは城によって違います」
名古屋城の三之丸は、名古屋の藩士、家臣たちの中で、身分の高い家臣たちの屋敷がずらりと並んでいたところだそうです。
何番まであるんですか?
「数字が付いているのは一般的には三之丸までです。四之丸は、四(し)=死ということで、縁起が悪いからありません。あとは一般的に東西南北の方角を使って、西之丸とか南之丸とかと名付けました」
「名古屋城の場合には三之丸に御殿はなかったんです。例えば姫路城は三之丸に御殿があったんですが、これは城によって違います」
名古屋城の三之丸は、名古屋の藩士、家臣たちの中で、身分の高い家臣たちの屋敷がずらりと並んでいたところだそうです。
何番まであるんですか?
「数字が付いているのは一般的には三之丸までです。四之丸は、四(し)=死ということで、縁起が悪いからありません。あとは一般的に東西南北の方角を使って、西之丸とか南之丸とかと名付けました」
建物じゃなくて区画の名前
また名古屋城では、西北のところが御深井丸(おふけまる)と呼ばれています。深井(ふけ)というのは湿地帯のこと。このように城によって独特の名前を付けることもあります。
多田「本丸から二之丸、三之丸、あるいは○○丸などのは、それぞれ御殿のことを表しているわけですね?」
三浦先生「いや、そうじゃないんです。○○丸というのは城の区画ですね。要するに敷地だと思ってもらうといいんですが、その区画ごとに○○丸とついています。その区画の中に御殿があったときには、○○丸御殿と言うんです」
多田「本丸から二之丸、三之丸、あるいは○○丸などのは、それぞれ御殿のことを表しているわけですね?」
三浦先生「いや、そうじゃないんです。○○丸というのは城の区画ですね。要するに敷地だと思ってもらうといいんですが、その区画ごとに○○丸とついています。その区画の中に御殿があったときには、○○丸御殿と言うんです」
名古屋城本丸御殿が一番
「今はなき二之丸御殿は日本に存在した御殿の中で、史上2番目の大きさだったですね。もちろん一番大きいのは江戸城本丸。2番目が名古屋城二之丸御殿です。さすが名古屋ですね」
本丸御殿は二之丸よりも古かったことと、いろんなものが建っていたことが重要なんだそうです。名古屋の他に、大きな御殿で現存しているのは二条城二の丸御殿だそうです。
「二条城二の丸御殿と名古屋城の本丸御殿は戦争前、要するに焼ける前から、両方が日本の御殿の代表作とされていたんです。しかし、私の個人的見解からすると、二条城二の丸御殿よりも名古屋城本丸御殿のほうが価値が高いと思うんですね」
「先生、名古屋大好きですもんね」と言う多田に、「名古屋大好きですね」と返す三浦正幸先生でした。
(尾関)
本丸御殿は二之丸よりも古かったことと、いろんなものが建っていたことが重要なんだそうです。名古屋の他に、大きな御殿で現存しているのは二条城二の丸御殿だそうです。
「二条城二の丸御殿と名古屋城の本丸御殿は戦争前、要するに焼ける前から、両方が日本の御殿の代表作とされていたんです。しかし、私の個人的見解からすると、二条城二の丸御殿よりも名古屋城本丸御殿のほうが価値が高いと思うんですね」
「先生、名古屋大好きですもんね」と言う多田に、「名古屋大好きですね」と返す三浦正幸先生でした。
(尾関)
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