『多田しげおの気分爽快!!』、火曜の名物コーナーは日常の素朴な疑問を解決する「早川敦子のそぼQ」。
12月26日、今年最後のこのコーナーは、年末年始にまつわる「そぼQ」の3連発です。
今回は、國學院大學大学院文学研究科民俗学研究室教授 新谷尚紀先生にお話を伺いました。
年越しそばのはじまりは都市の町人
お題①「大晦日に年越しそばを食べるのはなぜ?」
今や、全国で当たり前のように食べている年越しそば。多田は関西でうどん文化圏ですが、やはり大晦日にはそばを食べるそう。
実はこの風習、大昔から日本全国でだれもが食べていたわけではないそうです。
早川がその経緯をまとめました。
「そもそも、そばを今のような麺という形にして食べるようになったのは江戸時代の中期以降。それ以前は『そばがき』というお団子状にしたものを食べていました。江戸時代の後期になると、江戸、大阪などの都市の町人の間でそばを延ばして手打ちにして食べることが浸透しはじめました。
そして大晦日の年越しの食べ物としてそばをすすることが流行りはじめました。江戸っ子たちにとっては、そばは生地を長く延ばすから、長生きにつながって縁起がいいね、ということでしょう。
それとともに、商売をしている町人にとっては、大晦日は忙しい、ゆっくりご飯を食べている暇がない。だからつるつると食べられるそばは年越しの食べ物として合理的でもあった。これが年越しそばの始まりでした」(早川)
全国に浸透させたのはマスコミ?
この年越しそば、あくまでも都市部の商売をしている人たちだけの限られた習慣だったそう。その他大勢の日本人は、明治、大正、昭和に入ってからも、大晦日には、正月行事の一環としておせち料理のお膳を食べるのが一般的だったそうです。
ではなぜ年越しそばが全国に広がっていったかというと、新谷先生は「マスコミの影響」と言います。
高度成長期になり、1950年代後半以降TV放送が始まり、スーパーで簡単にそばが手に入るようになってから、大晦日の年越しそばの文化が全国的に広まっていったと思われます。
全国的には割と新しい習慣だったのですね。
「これぽっち」のお年玉?
お題②「お年玉を入れる袋を『ポチ袋』というのはなぜ?」
新谷先生は「これっぽっちの、と言いますよね。ポチ袋は"これっぽっち"からきたという説もあります。中に入れるお年玉も、元はお金でなくお餅だった」と意外な話から入ります。
これも早川がその経緯をまとめました。
これも諸説あるそうですが、江戸時代の町人の風習で、町人のうちには各地から若い使用人たちが奉公に来ていた。その人たちは大晦日から正月にかけてふるさとに帰る。その時、主人が使用人に対して、食べ物、着物などを、ふるさとの両親に持っていきなといって渡した。これがお歳暮の始まりだそうです。
それとともに「年玉」という丸いお餅を渡した(「年魂」とも書いたそうです)。
当時お米で作ったお餅は高級品で、魂の象徴でもあった。昔は旧暦ですから、新年を迎えるとみんながひとつ年をとる。来年もひとつ立派な大人になれよ、という意味で年玉を渡した。
これが明治時代以降、お金へと姿を変えたそうです。当時は、正月三が日で使い切れるほどのお駄賃程度の金額だったので「これっぽっち」ということでポチ袋となったそうです。
現代は「これぽっち」でない金額になっていますね。多田はぼそっと「今度、小さい餅入れてあげよう」と、つぶやきました。
茄子にけがなし
お題③「縁起がいい初夢が、『一富士二鷹三茄子』なのはなぜ?」
新谷先生「富士というのは縁起がいいというのは頼朝が鎌倉幕府を開いた頃から、江戸の町の人から見れば、富士はなくてはならない背景だった。それに鷹は勇猛果敢な鳥だということで、富士が出てきたことで、それに引っ張られて鷹が出てきた。
あと、茄子はきゅうりと違って、つるっとしていて毛がない、"ケガがない"と言われていた」
早川「ダジャレですね?」
新谷先生「そうそう、そういうのが縁担ぎには多いです。しかも茄子紺とか紫は高貴な色なんです」
早川は「言われてみれば、『ことをなす』のナスでもあるなど、茄子にはいろいろな意味が込められているのですね」と感心しきり。
この回答に多田は「気に入らないなー」と、ひとりむくれます。多田が気に入らない理由はわかりませんが、早川が「毛がないことはいいことなんですよ」と慰めを。「じゃ、『三坊主』にしとけよ」と多田。
そこに引っかかっていたのですね。気にするほどではないと思いますが。少なくとも茄子よりはずっとふさふさですよ。
最後、早川は「皆さんもよい初夢をみてください」と、一足早く新年のご挨拶でコーナーを締めました。
(みず)
多田しげおの気分爽快!!~朝からP・O・N
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2017年12月26日08時31分~抜粋