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漫画というジャンルを作った手塚治虫の衝撃

『多田しげおの朝からPON』の人物伝、「朝のPON人伝」では、その日に誕生日を迎える著名人のエピソードを紹介しています。
11月3日は漫画家でアニメーション作家の手塚治虫さんを取り上げました。

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漫画というジャンルを作った人


手塚治虫。1928年11月3日生まれ。『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『火の鳥』そして『ブラックジャック』などなど多くの代表作を残しました。

漫画は、手塚治虫さん以前と以後では全く違うものとなりました。手塚治虫さんは漫画家と言う以上に、漫画というジャンルを作り出した人です。

手塚以前、手塚以後


手塚治虫さんの子供の頃も、もちろん漫画という文化はありました。しかし、その頃の漫画というのは、風刺をする一コマ漫画や、せいぜい四コマのもの。海外の物では、スヌーピーに代表される、せいぜい見開き2ページのものでした。

一発風刺が主だった漫画の世界へ、手塚治虫はストーリーがある長編を持ち込みました。それまではストーリー性のあるものといえば小説だったんです。

手塚さんは、漫画にストーリーを持たせて、長編でどんどん話を展開していきました。今となってはそれが漫画なのですが、そういうジャンルを作った人が手塚治虫さんなんです。

当時の人にとっては異次元の経験


手塚治虫さんの初期の作品の見開きに『これは小説ではない。漫画でもない。新しいものです』と、自分で書いている作品もありました。そんな説明がいるぐらい手塚さんの漫画は革命的だったんですね。

手塚ファン、というより手塚信者である落語家の立川談志さんは、小学生の時に、『新宝島』を読んだ衝撃を「今まで経験したことのない異次元の物に出会った」と語っています。

小学校で『虫』がつく


手塚さんは1928年大阪府豊中市に生まれました。自由闊達な家庭に生まれて、自由闊達に子供の時代を過ごしました。
本名は手塚治。名前の最後に「虫」はまだありません。

小学生の頃から漫画を描き始めて、9歳の時には自身で描いた作品を回覧していたそうです。友だちだけでなく、先生にも好評だったと言います。

手塚さんは虫が大好き。昆虫採集にも熱中して、よく昆虫図鑑を見ていました。そこにオサムシという虫を発見します。「これを自分のペンネームにしよう」と、本名の治に「虫」という字をつけます。このペンネームを、こどもの時につけてたことに驚きです。

ちなみにオサムシは、飛べない小型の甲虫で肉食です。

医学生と漫画家の二足の草鞋


勉強も良くできた子供でした。大阪府立北野中学(今の大阪府立北野高等学校)から、当時の大阪帝国大学(現在の大阪大学)医学専門部(現在は廃止)に進みます。専門は外科でした。

学生の頃に『ジャングル大帝』を、雑誌『漫画少年』で連載しました。連載作品を描きながら、医学専門部はちゃんと卒業します。医学生の傍ら、すでに漫画家の人生もスタートおり、代表作まで描いていたんですね。

医学博士が虫プロ設立


24歳で医師国家試験に合格します。
同じ時期、雑誌『少年』に鉄腕アトムが連載が始まりました。
その後、漫画家として作品を描いていくんですが、33歳の時には医学博士の学位もとっています。

その33歳の時、手塚治虫プロダクション動画部を作り、これが翌年、あの「虫プロダクション」となり、日本初の30分テレビアニメとなる『鉄腕アトム』を製作しました。34歳の時に『リボンの騎士』を雑誌『なかよし』に連載開始。

日本初のカラーアニメ


37歳の時には、あの『ジャングル大帝』がテレビのアニメーションになって、フジテレビで放送されました。これが日本で国産初のカラーのテレビアニメーションとなりました。

「これ、私、リアルタイムで覚えてますけども、とにかく綺麗と思ったことを覚えてます。それまでアニメーションの映像は白黒ですからね」と当時の思い出を語る多田しげおです。

手塚作品、アニメになって世界に


39歳の時に『火の鳥』を雑誌『COM』で連載開始。
さらに45歳の時にはブラックジャックが雑誌『少年チャンピオン』で連載開始。
生涯を通じて「代表作」と言われるだけでも約30作の作品があり、短編も含めると数百の作品になります。

その多くが翻訳版やアニメーションにもなって、アメリカ、ヨーロッパ、アジア各国にも輸出され、世界の子供たちに夢を与えたというのが手塚作品です。

余談ですが、ウズベキスタンのタシケントにある日本センターは手塚漫画が充実しているので、日本が恋しくなった旅人におススメです。

手塚作品のテーマは命の尊さ


手塚治虫さんの作品に貫かれているテーマは「命の尊さ」。
漫画という言葉は、今では世界語になっています。
その漫画文化を作り上げた、元々のルーツは全て手塚治虫にあり、と言っても過言ではありません。

59歳の時に、お腹に痛みを覚えた手塚さん。胃がんでした。翌1989年(平成元年)、60歳の若さで旅立たれました。手塚治虫さんは偉大な文化の創造者と言っていいでしょう。
『火の鳥』は完結してほしかったですが…
(尾関)
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2017年11月03日07時46分~抜粋

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