今年の4月21日(金)から5月14日(日)まで『第27回全国菓子大博覧会』が三重県伊勢市で開催されます。
ということで今回の金曜特集、お題は「和菓子」を取り上げました。
スタジオには、中部製菓専門学校の教授、都築敏正さんをお迎えしました。
都築さんは、140年の歴史を誇る老舗和菓子屋「都築屋菓子舗」(愛知県知立市)の、5代目でもいらっしゃいます。
らじお日本和菓子ばなし
客の粋な計らい
「小さい頃お客様に育てられた」と話す都築さん。今でも忘れないエピソードがあるといいます。
店番をしていると、客からお駄賃をもらうこともあったそうです。しかしある時、母親が「もらい癖がつくからやめてほしい」と客に頼んだところ、逆に注意されたというのです。
「商売に携わる子どもを育てるには、こういう時にお金をもらって、どんな自然な顔ができるのか、というのも大事なこと。お母さんの考えは違ってるよ」
そんな恵まれた(?)環境で育ち、今では和菓子職人歴40年以上の都築さん。洋菓子はお祝い事にしか使われないが、和菓子は仏事にも使われるところに、奥深さを感じるとか。
確かに「葬式まんじゅう」はあっても「葬式マカロン」はありませんね。
「和菓子作りの難しさは、勘に頼る部分が大きいところ。小豆・小麦粉・米粉などの原材料は、毎年作柄が違う。それを同じような商品に仕上げていくのは勘の部分」と語る都築さん。勘は経験と言い換えてもいいでしょう。ザ・職人ですね。職人としてこんなスタンスを取っているそうです。
「芸術家は、この世にふたつとない、一番良いものを作り上げる。職人は、消費されて消えてしまう、品質の同じものをたくさん作り上げる。そこが違うところ」
武士に縁起が良いのは…?
続いて、日本でのお菓子ヒストリーを都築さんにお聞きしました。
太古の昔より、日本では甘いものとして、干し柿・焼き栗・縄文クッキー(ドングリを粉状にして固めて焼き上げたもの)などが存在していました。
それから奈良時代よりちょっと前の遣隋使・遣唐使などで中国との貿易が盛んになり、唐菓子(とうがし・からくだもの)が伝わってきました。
油で揚げる・形に工夫を凝らすなど、当時の日本には無かった発想のものもあり、ここからお菓子という概念が始まったと言えます。
そんな奈良時代・平安時代を経て、鎌倉時代には茶の栽培と茶を飲む習慣が広がります。
当時は朝と夜の一日二食が普通だったのですが、茶とともに点心(中国料理の軽食)の文化も浸透。お昼に間食するようにもなったのです。今で言うおやつみたいなものですね。
これが、茶菓子の始まり。その後、室町時代以降の茶道文化とともに発展していくのでした。菓子=デザートという概念の始まりでもあります。
そして時は進んで江戸時代。この頃はどんな和菓子が主流だったのでしょう?どうやら、大納言という大粒の小豆がよく使われていたようです。
それは、江戸時代は武家文化だから。
大納言は皮が厚く、煮た時に割れません。「切腹しないで済む」という、侍にウケる食材なのでした。
名古屋は文化のるつぼ
小豆といえば、あんこ。小豆を煮た後に、皮をそのままにしておけば粒餡。皮を取り除けばこし餡になります。地域によって好みが分かれるそうです。
こし餡は京都・大阪などの上方が中心。京都は元々、日本の政治・文化の中心地。余計なものが入ってないこし餡は、口どけが良く、いやみ・えぐみがありません。この上品さが都会である京都に受け入れられたのですね。
都から離れると、粒餡エリアになっていきます。“田舎まんじゅう”という名称もあるくらいですから。
では、上品なこし餡の京都と、侍ウケする粒餡の江戸に挟まれた名古屋は、一体どちらのエリア?
その答えは「どちらも」。名古屋は両方受け入れちゃうのです。肉食獣と草食獣とが共存する『ジャングル大帝』の世界です。
今どきの作品なら『けものフレンズ』の世界です。粒餡フレンズとこし餡フレンズが仲良く暮らす街。名古屋は“すごーい!たのしー!”ところなのです。
餡の流通ついでに余談をひとつ。
人に和菓子などのご進物を渡す時「くだらない(つまらない)物ですがどうぞ」と言いますよね。あれは、「(日本の中心地である)京都から下ってきてない、地元で作った物ですがどうぞ」という意味があるそうですよ。昔は京都方面が“上り”でしたから。
以上、豆知識でした。小豆餡だけに。
(岡戸孝宏)
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