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強引だけど、4月10日は「駅弁の日」

この日のCBC論説室長・石塚元章の月曜コラムでは駅弁の話題。
4月10日は「駅弁の日」。算用数字の「4」と漢数字の「十」を組み合わせると弁当の「弁」。弁当の「当」は10日の10(とお)で「当」。合わせて「弁当」。

「駅弁」じゃなくて「弁当」かい、と突っ込んではいけません。日本鉄道構内営業中央会というところが制定しました。
実は7月16日「駅弁記念日」というのが別にあるので、他の日にするために何かと苦労したようです。

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日本の駅弁の最初は?


諸説あるんですが、明治18年7月16日。ほぼ定説となりつつあり、また鉄っちゃんの間で言われているのが、宇都宮駅が開業した時に売り始めた駅弁が最初ということです。この日が駅弁記念日となっています。
諸説あって違うと言い張る駅があるので、改めて4月10日の「駅弁の日」を決めたようです。

さて宇都宮駅弁当ですが、今の駅弁とは全く違います。沢庵とおにぎり2個を竹の皮で包んだもの。
値段は当時で5銭。当時の物価だと、そばが一杯1銭なので、そば5杯分でおにぎり2個。かなり高いですが、高くても売れるぐらい、当時、列車の中に持って入れる食事がなかったということでしょう。

幕の内やモダンな駅弁も登場


後に駅弁の定番になるのが出汁巻き卵とか鮭の塩焼きとかが入っている「幕の内」。
あの幕の内は明治22年に姫路の駅で販売が始まったそうです。この頃になると鉄道網もある程度、整備され、長距離移動する人も増えてきました。駅弁も旅の必需品になってきました。

洋食の駅弁の最初は明治32年、神奈川県の大船駅でハムサンドイッチを作ったのが始まり。明治半ばに駅弁としてハムサンドイッチ登場。この登場は考えてみると結構早い気がします。
モボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)という西洋ファッションが流行したのが明治の後の大正末期から昭和初期なので、西洋ブームをかなり先取りです。

駅弁不遇の時代


戦時中は食糧難の時代。政府が食料を管理していました。政府は国民に「米穀配給通帳」を発行して、これがないと食料が入手できませんでした。これで食料をもらって家で調理して食べるわけです。

戦時中と言えども、当然、移動する人はいます。外食する人のために発行されたのが外食券でした。駅弁は旅行用の外食券があって、ホームで駅弁と交換してもらうために並んだそうです。
もらえる弁当は肉も魚も入っていない、かろうじて野菜を煮ただけというようなものと変えてもらいます。戦時中から戦後も結構長くこんな駅弁だったそうです。

昭和30年代になって、やっと駅弁を旅行で楽しむことができるようになりました。各駅ごとに特色のある駅弁が出てきたのがこの頃です。

駅弁の入れ物もいろいろ


昔の幕の内弁当は、経木という厚紙ぐらいの薄さの木の板を組んだ箱に入っていました。当時の材料としては、こういうものしかなかったのですが、実はこれが弁当にとってなかなか良かったんです。松や桐、樅などが材料で通気性と殺菌性に優れていました。しかもご飯の水分をほどよく吸ってくれるので、長く愛用されました。

なぜか各家庭に1個はある「峠の釜めし」の陶器で出来た入れ物。
その他、当や竹で編んだものに入れたものもありました。

最近になるとプラスチックや発泡素材。さらに、加熱式の弁当も出てきて、温めて食べられます。使い捨てカイロと同じ原理で、お弁当を温めます。温かいのは嬉しいのですが、周りに匂いがして、何を食べているか分かってしまう恥ずかしさもあります。

入れ物と言えば、お茶も独特なものに入っていました。お茶の入れ物は、蓋がカップになった半透明のポリ容器でした。熱いお茶の場合、ポリの匂いが移って困りました。今は、ペットボトルが買えるからいいですよね。

現在は、鉄道の高速化や、コンビニなどどこでも食べ物が買えるため駅弁そのものの売り上げは減っているのですが、それでも4,000種類ぐらいあるそうです。



駅弁も生き残りを図るために地域密着で各地域のPR道具として活かされるようになってきました。その代表的なものがデパートの駅弁フェアです。
「デパートで買って家で食べたらどこに駅が関係するんだ」と突っ込む石塚論説室長ですが、「駅弁」が持つ独特な雰囲気が魅力なので「駅弁という名称は残してほしい」ということでした。
(尾関)
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2017年04月10日07時18分~抜粋

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