特集記事

民放ラジオ番組史4・一家の娯楽から個人のラジオへ。

日本に民間放送局が誕生して67年。
これまで過去3回、CBCラジオの番組を中心に1950年代、黎明期の民放ラジオについて触れてきました。

今回の「民放ラジオ番組の変遷」は1960年代に起こったラジオ聴取の変化と、深夜放送の誕生について振り返ります。

[この番組の画像一覧を見る]

ラジオのオワコン化

戦前から戦後に登場したほとんどのラジオ受信機は真空管を使用していました。真空管ラジオには多くの電力が必要で、必然的に茶の間に置かれていました。
ラジオはそこに集う家族みんなで聴く娯楽メディアとなっていたのです。



民放ラジオの開局から1年5ヵ月年後の1958年(昭和28年)2月、NHKがテレビ放送を開始し、半年後には日本テレビが民放初のテレビ局として誕生します。
一般家庭では高根の花だったテレビでしたが、昭和34年(1959年)、皇太子と正田美智子さんのご成婚中継をきっかけに受像機が大量に普及しました。

主役の座はテレビに移り、ラジオは今で言うところの「オワコン」となりました。NHKのラジオ受信契約もこの頃から激減していきます。

ラジオはひとりで聴くものに

一方、ラジオ受信機も技術の進歩で小型化し価格も安くなりました。
東京通信工業(現在のソニー)が日本で初めて開発したトランジスタラジオが爆発的に普及したのは、皇太子ご成婚の1959年(昭和34年)から翌年にかけてでした。

一家で聴く家財から個人で楽しむデバイスへ。ラジオの概念が大きく変わっていくことになります。

ちょうどこの頃に発生したのが、前回触れた伊勢湾台風でした。
この当時、名古屋市のラジオの受信者は31万8千人。そのうちポータブルラジオ(注)の所有者は推定6万7千人、全体の5分の1しか普及していませんでした。
そのため、停電でラジオやテレビから気象情報が得られず、避難が遅れたという自治体の報告も多く残されています。

また5年後に発生した1964年(昭和39年)の新潟地震では、普及の広まったポータブルラジオによって避難情報がもたらされました。かつて災害時に起こった流言飛語・デマもなく、被害の拡大を抑えられた成果が、新潟市によって記録されています。

防災ツールとして注目を集めたことも、ポータブルラジオの普及に追い風となったと考えられます。

(注)ポータブルラジオには鉱石ラジオ等も含まれており、すべてトランジスタラジオだったわけではありません。

深夜放送の誕生

トランジスタラジオは乾電池で動作することから、外へ持ち出せるようになりました。ラジオは屋外で接することのできるメディアとなったのです。



昭和30年代半ばは高度経済成長期で、空前の建設ラッシュ。建築現場ではラジオを聴く作業員が多かったようです。
こうした背景からか、この頃から深夜労働者を対象に深夜放送を実施する放送局が増加しました。

当初の深夜放送の内容は、ジャズなどの軽音楽の間に女性のナレーションや朗読を挿入するなど、成人男性を強く意識したもので、キャバレーやラブホテルなどのCMを流した放送局もあったそうです。

CBCラジオでは1961年(昭和36年)から1965年(昭和40年)まで、23時台に『ナイトキャッスル』という番組を放送しました。
当時の制作スタッフによれば「名古屋の夜は歓楽街が閉まるのが早かったので、ラジオで夜に花を咲かせようと企画した」とのことです。

また深夜に限らず、家事や仕事をしながら、あるいは自分の部屋へ持ち込んで勉強をしながら、というラジオの「ながら聴取」が浸透してきたのもこの頃です。

セグメント編成

1962年(昭和37年)から、日本民間放送連盟は各局幹部をアメリカに派遣して、ラジオの最新事情について調査を開始します。
日本より5年早くテレビ放送が始まったアメリカでも、同じようにラジオが斜陽化したのですが、60年代に再び復権を遂げていたのです。

こうした動向の中で、1964年(昭和39年)3月にニッポン放送が打ち出したのが「オーディエンス・セグメンテーション編成」でした。

朝は出勤前の男性、午前中は家事を終えた主婦、午後はドライバー、夜は若者と時間帯によって変動するリスナー層を想定し、内容をカスタマイズした番組を配置したのです。
これはマーケットにおける市場細分化に倣ったものですが、営業面でもドライバーや若者向けの新規スポンサー獲得に効果を発揮しました。

この動きに各局が追随し、50年以上経った今でも「セグメント編成」として、ラジオ編成の基本となっています。

深夜放送から深夜番組へ

当初は労働者をターゲットをしていた深夜放送枠でしたが、調査のたびに10代リスナーが男女ともに増加していることがわかり、編成の見直しが図られます。
アダルトな内容、コマーシャルは排除されていき、番組のメインは音楽に替わり、番組司会者はDJ(ディスクジョッキー)と呼ばれるようになります。

その先駆者となったのは、ニッポン放送の糸居五郎アナウンサーです。

1959年(昭和34年)に始まった『オールナイトジョッキー』で、糸居さんは最新の洋楽と話し手の個性を持ち込みました。アーティストのプロフィールや本国での評価といった情報をさりげなく織り込み、リスナーからの信頼とカリスマ性を獲得します。

明確に若者をターゲットにした「深夜番組」は、やがて「パーソナリティ」という概念を生み、ラジオ復権に大きく貢献することになるのです。
(編集部)
関連記事

あなたにオススメ

番組最新情報