日本に民間放送局が誕生して67年。
現在のAMラジオでは情報番組をはじめ、音楽番組、タレントのひとりトークまで様々なタイプの番組が放送されています。またパーソナリティも局アナ、放送タレント、文化人、アイドル、お笑い芸人と多岐に渡っています。
今回から数回に渡り「民放ラジオ番組の変遷」と題し、番組がどのように変化してきたのか、CBCラジオの歴史を織り込みながら振り返ってみます。
民間放送の第一声
昭和26年(1951年)9月1日の6時30分、日本初の民間放送局として第一声を発したのは、名古屋の中部日本放送、つまりCBCラジオでした。
「ちゅうぶにっぽんほうそう、JOAR、1090キロサイクルでお送りいたします。皆さん、おはようございます。こちらは名古屋のCBC、中部日本放送でございます。昭和26年9月1日、わが国で初めての民間放送、中部日本放送は今日ただいま、放送を開始いたしました」
宇井昇アナウンサーによるこのアナウンスから、民放の歴史は始まったのです。
ちなみに「キロサイクル(kc)」とは開局当時の周波数の単位で、1972年7月からは「キロヘルツ(kHz)」となっています。
また周波数そのものも数回変更されており、現在の1053kHzになったのは1978年11月です。
「ちゅうぶにっぽんほうそう、JOAR、1090キロサイクルでお送りいたします。皆さん、おはようございます。こちらは名古屋のCBC、中部日本放送でございます。昭和26年9月1日、わが国で初めての民間放送、中部日本放送は今日ただいま、放送を開始いたしました」
宇井昇アナウンサーによるこのアナウンスから、民放の歴史は始まったのです。
ちなみに「キロサイクル(kc)」とは開局当時の周波数の単位で、1972年7月からは「キロヘルツ(kHz)」となっています。
また周波数そのものも数回変更されており、現在の1053kHzになったのは1978年11月です。
1950年代のラジオ番組の特徴
お手本はNHKのみという中で船出した各民間民放局ですが、開局から数年間はニュースやクイズ番組、歌謡番組、ラジオドラマ、朗読などのプログラムが中心で、台本のないフリートーク番組はほぼ皆無でした。
現在のように全国各局にまたがるネットワークもなく、ほとんどのコンテンツを自局で賄うという状況でした。
当時のローカル番組を支えたのは、アナウンサーの他、俳優や声優など話術のプロたち。
CBCでは開局まもなく「劇団CBC」を結成し、主にラジオで活躍する声優を育成していました。
後に『ウルトラマン』(1966年)『ウルトラセブン』(1967年)のナレーションを務めた浦野光もこの劇団出身者のひとりです。
現在のように全国各局にまたがるネットワークもなく、ほとんどのコンテンツを自局で賄うという状況でした。
当時のローカル番組を支えたのは、アナウンサーの他、俳優や声優など話術のプロたち。
CBCでは開局まもなく「劇団CBC」を結成し、主にラジオで活躍する声優を育成していました。
後に『ウルトラマン』(1966年)『ウルトラセブン』(1967年)のナレーションを務めた浦野光もこの劇団出身者のひとりです。
ストップ・ザ・ミュージック
今回は昭和20年代にスタートしたCBCラジオ黎明期の人気番組を紹介します。
CBCラジオが開局した1951年(昭和26年)9月1日は土曜日でした。
この開局日から毎週土曜日のレギュラー番組となったのが、この『ストップ・ザ・ミュージック』でした(後に月曜日に移動)。
放送時間は午後0時15分から45分まで。司会は開局当時は劇団CBCの団員で後にアナウンサーへ転向する栗谷俊男でした。
アメリカABCラジオの同名番組(1948年-49年、49年からはテレビ番組化)を下敷きにし、レコードをかけて曲名を当てさせるクイズ番組です。オリジナル版ではリスナーから電話で回答を募りましたが、CBCラジオでは第1スタジオ(初代)での公開放送として観客参加型の番組となりました。
レコードの回転数を変えたり、逆再生にしたり、2曲同時にかけてそれぞれの曲名を当てさせるなど、出題にさまざまな工夫がなされ、1958年(昭和33年)3月末まで続く長寿番組となりました。
CBCラジオが開局した1951年(昭和26年)9月1日は土曜日でした。
この開局日から毎週土曜日のレギュラー番組となったのが、この『ストップ・ザ・ミュージック』でした(後に月曜日に移動)。

放送時間は午後0時15分から45分まで。司会は開局当時は劇団CBCの団員で後にアナウンサーへ転向する栗谷俊男でした。
アメリカABCラジオの同名番組(1948年-49年、49年からはテレビ番組化)を下敷きにし、レコードをかけて曲名を当てさせるクイズ番組です。オリジナル版ではリスナーから電話で回答を募りましたが、CBCラジオでは第1スタジオ(初代)での公開放送として観客参加型の番組となりました。
レコードの回転数を変えたり、逆再生にしたり、2曲同時にかけてそれぞれの曲名を当てさせるなど、出題にさまざまな工夫がなされ、1958年(昭和33年)3月末まで続く長寿番組となりました。
日曜劇場

開局2週目の9月9日から、毎週日曜日夜8時に1時間放送されていた、漫才師や落語家の芸やトーク、ミニドラマなどで構成されたバラエティ番組のはしりでした。
特筆すべきはレギュラー出演者の顔ぶれ。
桃屋のCMでおなじみの三木のり平と、第2回紅白歌合戦('52)の司会も務めた人気歌手の丹下キヨ子。そして多忙の三木に替わり途中から名優として知られる有島一郎が登場し、52年4月からは喜劇俳優としてブレイク中だった伴淳三郎とコメディエンヌの清川虹子のコンビとなって53年10月まで2年間放送されました。
特に伴はこの番組出演中に「アジャパー」というフレーズがブレイクして人気の頂点にあったばかりか、共演していた清川ともこの年に結婚します。
今では例えようのないビッグネームが、新幹線もない時代に、毎週名古屋のスタジオに来ていたというから凄まじい話です。
バイバイゲーム

1951年10月9日スタート。毎週火曜日午後8時から放送された30分間のクイズ番組です。司会者は玉井亮三アナウンサーでした。
回答者が5つのクイズに挑戦し、正解するごとに250円の賞金が500円、500円が1,000円、1,000円が2,000円、そして全問正解で4,000円と倍増、不正解でゼロになるという『クイズミリオネア』の元祖のような番組でした。
なお最高賞金の4,000円ですが、当時の公務員初任給から換算すると現在の13万円ほどの価値になるようです。
エリア内の各地への出張収録も行っており、特に1951年の年末に岐阜県大垣市の大垣市体育館で行われた収録には、場内に2万人、場外にも1万人の観衆が集まったという伝説が残っています。
1958年3月まで341回にわたり放送されました。
町から村から
開局日のあさ8時5分から毎日放送された、中京エリアの市町村の話題を紹介する5分間のミニ番組でした。
時間変更をしながらも継続され、その後『小沢昭一の小沢昭一的こころ』『トヨタうわさの調査隊』(TBSラジオ制作)のローカル差し替え枠として残り、2002年まで51年間続きました。
時間変更をしながらも継続され、その後『小沢昭一の小沢昭一的こころ』『トヨタうわさの調査隊』(TBSラジオ制作)のローカル差し替え枠として残り、2002年まで51年間続きました。
今日のご案内
こちらも開局日から始まった朝の百貨店情報番組で、のちに松坂屋、名鉄百貨店、丸栄、オリエンタル中村(のちの名古屋三越)の4店舗による『今日のデパート案内』として朝のワイド番組に内包されました。
こちらは2008年に終了しています。
こちらは2008年に終了しています。
歌のない歌謡曲
関連記事