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民放ラジオ番組史3・災害報道の確立

日本に民間放送局が誕生して67年。
このシリーズでは「民放ラジオ番組の変遷」と題し、番組がどのように変化してきたのか、CBCラジオの歴史を織り込みながら振り返っていますが、前回触れた2代目の第1スタジオが竣工した直後の話です。1959年(昭和34年)9月26日に中京圏を襲った伊勢湾台風を、CBCラジオがどう伝えたかをお伝えします。

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猛威は想定されていた

9月20日に太平洋沖で発生した台風15号は、強い勢力を保ったまま日本列島に接近していました。

25日の午前中には和歌山県潮岬から400kmの位置で、中心気圧920mb、最大風速60m/sと観測され、名古屋地方気象台では早期の警戒が必要として、この日の19時にテレビ、ラジオに対して第一報を要請しました。

これを受け、CBCラジオでも要請通りに定時ニュース枠でこの情報を報じています。
19時台は、当時のラジオ、テレビへの接触率が最も高い時間でした。
実際に中京圏で風雨が強まったのは翌日の夕方なので、かなり早い時点で情報が送られたことになります。

またこの日、気象庁による報道機関への説明会も行われ、この台風への警戒レベルが過去最高となることが伝えられました。CBCではラジオ、テレビともにそれぞれの報道体制を整えることになります。
開局から8年(テレビは3年)、情報の取捨選択などマニュアルもない状況でした。

猛威の確信

そして26日。CBCラジオでは配備されて間もないFMカーを四日市、伊勢方面へ向かわせ、朝6時から定時ニュースで最新情報を放送していました。
沿岸自治体への独自取材により気象台予測の裏付けも行われました。

名古屋市内では午前中から風が強まり、午後になると雨が強く降り始めます。
この日は土曜日でしたが、当時は週休二日制ではなかったため、多くの人が出勤していました。

そこで正午には「国鉄(現JR)、名鉄、近鉄、市電、市バスは風速何メートルで運行を休止するか」といった基準を報じ「お勤めの方はなるべく早く帰宅されるように」と伝えました。

そして14時には「なるべく」を取って「早く」、さらに17時の速報では「一刻も早く」と、語気を強めて帰宅を促しました。
合わせてローソク、水、懐中電灯、食料、薬品の準備も呼びかけています。

CBC会館の窓ガラス大破

17時になると本社のある名古屋市中区新栄町(当時)でも、傘が飛ばされるほどの強風が吹き荒れました。

また中部電力から「19時に送電を停止する」と通知があり、自家発電の準備が始まります。
記録によれば、この時用意した発電機で、送電が再開された翌日の正午までの放送に耐えたそうです。

予測どおり猛烈な風雨の中で送電が停まると、今度は電話線が不通になりました。
官庁用の緊急電話は確保されましたが、肝心の気象台が被災して通話不能となったため、無線車を向かわせ報道部との連絡を維持しました。

名古屋市内で最大瞬間風速45.7m/sを記録した22時の直前、CBC会館の南側の窓ガラスが大破し、報道部には猛烈な風と雨が吹き込みました。
ちなみにCBC会館は、この年の6月に増築工事を終えたばかりです。

22時のニュース用にアナウンサーが持っていた原稿は強風で飛び散り、必死にかき集めてスタジオへ入ったものの、10分間のニュースが4分間で終わってしまう事態となりました。

名古屋市南部がほぼ水没

報道スタッフは大道具を持ち込んで、風雨を防ぎながら取材体制を立て直していましたが、その最中に名古屋市内の取材から戻った報道部長が衝撃的なレポートを放送しました。

「午後11時現在、名古屋市南部はほとんど水の中に没しているようです」

報道部長は台地の最南端にあたる熱田神宮付近が浸水しているのを自身の目で確認し、このことを伝えるため急ぎ帰社したのです。

記録によれば、伊勢湾最奥部にあたる名古屋港付近では高さ3.38mの堤防に対し、工事基準面から5.31mの高さの高波が襲ったそうです。

これにより名古屋市の半分近い面積の地域が浸水。
また木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川流域の堤防も決壊、もしくは水位が堤防を超え、伊勢湾岸のほぼ全ての市町村も浸水しました。

記者たちの取材を一時中止

特に被害が甚大だったのは名古屋市南部でした。沿岸部の貯木場から大量の丸太が流出、猛スピードで家屋に直撃し1,500人を超える犠牲者を出したのです。

記者たちの報告で状況を確信した報道部長は、いったん取材中止を命じました。記者の身を案じたため、また最悪の状況が想定される名古屋市南部への取材体制を整えるため、戻った記者たちを本社で待機させました。

日付の変わった深夜0時以降は東京のTBSラジオ、大阪のMBSラジオと結んだ3元放送を含み、翌朝5時までに計20回の報道特別番組を放送しました。

その間に風雨が弱まり、国道一号線以南全域が濁流に飲まれていることが判明すると、現地の記者たちは自発的に取材を再開。
夜が明けるにつれ、その尋常ならざる被害が明らかになったのです。

ラジオ報道は伝わったのか

進路や接近時刻は気象台の予測と一致しており、CBCラジオではこれらの情報や自社で検証した結果を毎時伝えていました。
高潮の被害が想定される地域もあらかじめ報じていました。

にも関わらず、愛知県と三重県を中心に死者4,697人、行方不明者401人もの犠牲者を出してしまいました。
ラジオからの呼びかけは役に立たなかったのでしょうか?

実は1959年当時、ラジオ受信機の多くがまだコンセントを必要としていました。そのため被害の大きかった地域では早くに送電が停まり、ラジオを聴くことすらできなかったのです。

奇しくも、電池で稼働できるトランジスタラジオが安く普及したのはこの1959年頃。翌60年には1,000万台を超える台数が販売されました。
この伊勢湾台風は、ラジオがパーソナルデバイスに変わる端境期に発生したのです。

ラジオとテレビの役割分担

翌27日以降、CBCテレビも名古屋市南部、三重県北部における被災状況を伝え始め、その惨状は全国のテレビ局で放映されました。

一方CBCラジオでは、今後伝える内容について「直接復興につながるもの」という方針を立てます。
およそ20日間に渡りライフラインの復旧、救援資材や食糧の入荷状況、衛生面や防犯上の注意を中心に放送していくことになったのです。

被災者に有益な情報を届けるラジオと、被害状況を広範に訴えていくテレビ。

民放において両者の災害報道のスタンスが分かれる契機となったのが、この伊勢湾台風と言われています。
(編集部)
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